牛窓神社は、岡山県瀬戸内市牛窓町にある神社です。 牛窓八幡宮とも称され、旧社格は県社です。
牛窓神社の祭神は、応神天皇、神功皇后、比売神、武内宿禰の四柱です。
牛窓神社の創建は、平安時代の長和年間(1012年〜1016年)とされていますが、牛窓町内には大型の前方後円墳が5か所、円墳、貝塚が無数に点在していることから、神社の初源はさらに遡ると考えられています。最初は土地の神霊を祀る「牛窓明神」として崇敬されていましたが、後に三韓征伐伝説に基づき、神功皇后をはじめとする八幡大神が勧請され、現在の形となりました。
なお、牛窓神社は『延喜式』には記載がないものの、『備前国内神明帳』には「従三位 牛窓明神」として記載されています。
牛窓神社には以下のような貴重な文化財があります:
牛窓町牛窓(うしまどちょううしまど)は、岡山県瀬戸内市にある地区(大字)です。 瀬戸内市牛窓地域(旧牛窓町)の南端に位置し、瀬戸内海(播磨灘)に面する港町を中心に形成されています。
牛窓町牛窓は、古代から「唐子の瀬戸」と呼ばれる風待ち潮待ちの良港として栄え、牛窓港の後背地として発展しました。平安時代には皇室領の鹿忍荘(かしのしょう)の一部として運用されており、後に豊原荘へと吸収され、そのまま皇室領として存続しました。
江戸時代には岡山藩の支配地となり、参勤交代の一行や朝鮮通信使の停泊港・宿泊地として重要な役割を果たしました。さらに、造船の町としても栄えましたが、明治時代以降の陸上交通の発展に伴い、瀬戸内海の海上交通が縮小し、町は衰退しました。しかし、近年ではマリンスポーツの好適地として再び注目され、温暖な気候を生かしたオリーブ栽培や、海に沈む夕日の景勝と相まって「日本のエーゲ海」と呼ばれるほどの観光地として発展しています。
牛鬼(うしおに、ぎゅうき)は、西日本に伝わる妖怪で、主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされています。
牛鬼は各地に伝承があり、その多くは非常に残忍で獰猛な性格を持つとされています。毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝えられていますが、一部の伝承では、悪霊を祓う神の化身として描かれることもあります。
伝承によれば、牛鬼は頭が牛で首から下が鬼の胴体を持つか、その逆で頭が鬼で胴体が牛の形態をしています。また、牛の首に人の着物を着せた姿で山間部の寺院の門前に現れることもあります。さらに、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来する姿も伝えられています。
牛鬼は海岸だけでなく、山間部、森や林の中、川、沼、湖など、さまざまな場所に現れるとされています。特に、淵に現れることが多く、近畿地方や四国には「牛鬼淵」「牛鬼滝」という地名が多く残っています。
江戸時代に描かれた妖怪絵巻では、牛の首と蜘蛛の胴体を持つ姿で描かれることが多く、『百鬼夜行絵巻 (松井文庫)』では、同様の絵が「土蜘蛛」という名で記されていますが、牛鬼と区別されている例も見られます。
牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后が三韓征伐の途中、この地で塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われ、弓で射殺しました。その後、塵輪鬼の頭、胴、尾が分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島になったと伝えられています。また、神功皇后が新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かりましたが、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したとされています。牛窓という地名は、この伝説の地を「牛転(うしまろび)」と呼んだことが由来とされています。
また、鎌倉時代に成立した八幡神の神威を紹介する神道書『八幡愚童訓』にも、塵輪(じんりん)という鬼が仲哀天皇と戦ったことが記されており、先述の伝承の由来とされています。
『作陽志』には、美作苫田郡越畑(現・苫田郡)の大平山に牛鬼(ぎゅうき)と名付けられた怪異が記されており、寛永年間に20歳ばかりの村民の娘が、鋳(カネ)山の役人と自称する男子との間に子供をもうけましたが、その子供は両牙が長く生え、尾と角を備えて牛鬼のようだったため、父母が怒ってこれを殺し、鋳の串に刺して路傍に曝しました。民俗学者・柳田國男はこれを、山で祀られた金属の神が零落し、妖怪変化とみなされたものと述べています。
神功皇后(じんぐうこうごう)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后であり、歴史的に重要な人物です。
彼女の名は『日本書紀』において、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と記されています。仲哀天皇の崩御後、彼女は応神天皇の即位までの約70年間、初めての摂政として君臨したとされています(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。
もし実在したとすれば、広開土王碑文、三国史記、七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などから総合して4世紀後半ごろの可能性が高いと考えられています。ただし、『日本書紀』編者が比定したとされる「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼の生涯とは約120年の差があるため、完全な一致は見られません。
三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が行ったとされる日本の伝承です。
神功皇后は、仲哀天皇の没後、新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下に置いたとされています。『日本書紀』では、新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされており、このため「三韓征伐」と呼ばれています。しかし、直接の戦闘が記されているのは新羅戦のみであるため、「新羅征伐」とも呼ばれることがあります。
また、『古事記』では新羅と百済の服属について言及されていますが、高句麗の反応については記されておらず、「三韓」という言葉も登場しません。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目が設けられています。
ただし、三韓とは馬韓(後の百済)、弁韓(後の任那・加羅)、辰韓(後の新羅)を指し、高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服と考えられる場合もあります。