高松城は、戦国時代に備中国賀陽郡中島村高松(現在の岡山県岡山市北区高松)に築かれた日本の城です。讃岐高松城と区別するために「備中高松城」とも呼ばれ、羽柴秀吉による水攻めでその名を知られています。
高松城は、低湿地帯を利用した梯郭式平城として築かれ、石垣を持たず土塁で防御されていました。築城時期ははっきりしていませんが、三村氏の命を受けた石川氏が築いたとされています。城の周囲の湿地帯が天然の堀となり、防御力を高めていました。
高松城は最初、三村氏の有力家臣であった石川氏が治めていましたが、天正3年(1575年)の備中兵乱で石川氏が毛利氏に滅ぼされると、清水宗治が城主となりました。宗治は備中兵乱の際に毛利氏に加担し、その後も高松城を守り続けました。
天正10年(1582年)、羽柴秀吉は織田信長の命を受け、中国地方への攻めを開始しました。高松城は沼地に囲まれた難攻不落の城とされていたため、秀吉はこの城を攻略するために持久戦を選びました。
高松城を包囲しても攻略が難しいと判断した秀吉は、5月1日に水攻めを決定。5月8日から堤防工事を開始し、僅か11日間で堤防を完成させました。梅雨の時期に入っていたため、堤防内に水が溢れ、城は水没しました。これが「高松城水攻め」として有名な戦法です。
高松城攻めの最中、6月2日に京都で本能寺の変が発生し、織田信長が明智光秀によって討たれました。この知らせを受けた秀吉は、毛利氏との和睦を急ぎ、清水宗治の切腹を条件に和議を成立させました。宗治は6月4日に自刃し、その後、秀吉は急遽中国大返しを行い、光秀を討つために京へ向かいました。
高松城はその後、宇喜多氏の領地となり、花房正成が城主として入りました。しかし、関ヶ原の戦いの後、城主となった花房職秀が亡くなった後、一国一城令によって廃城となりました。現在、城跡には宗治自刃の碑や宗治首塚・胴塚が残され、堰堤跡とともに「高松城跡 附:水攻築堤跡」として国の史跡に指定されています。
堰堤跡は「高松城水攻め史跡公園」として整備されており、発掘調査により堰堤の基礎部分が確認されています。現在では、城跡は公園として整備され、資料館も開館しており、訪れる人々にその歴史を伝えています。
備中高松城の戦いは、羽柴秀吉が中国地方での戦いを進める上で重要な戦いでした。この戦いによって秀吉は毛利氏との和議を成立させ、信長の死後の混乱を乗り切るために迅速に行動することができました。また、この戦いは日本三大水攻めの一つとして知られています。
高松城址へのアクセスは次の通りです。
高松城址公園には無料駐車場があり、車でのアクセスも便利です。また、園内には資料館があり、高松城の戦いに関するジオラマ展示やスタンプラリーも楽しむことができます。