雁堤は、静岡県富士市に位置する富士川東岸に築かれた歴史的な堤防で、江戸時代に氾濫を治めるために作られました。その壮大な歴史と文化的意義は今もなお語り継がれています。
雁堤は、日本三大急流の一つである富士川の氾濫を防ぐため、江戸時代に築かれました。古くから氾濫を繰り返していた富士川により、東岸の地域は人が住むのも難しい氾濫原となっていました。
江戸時代初期、駿河国富士郡に移住したとされる古郡家が中心となり、親子三代(重高・重政・重年)にわたる治水事業が行われました。元和7年(1621年)に重高が一番出しと二番出し(突堤)を築き、その後、重政が新田開発を進めましたが、氾濫は収まりませんでした。
次代の重年が寛文7年(1667年)に雁堤の築堤を開始し、延宝2年(1674年)に完成させました。この事業は7年をかけて行われ、重高の代から数えると50年以上の治水努力が結実したものです。
雁堤は、その形状が群れをなして飛ぶ雁の姿に似ていることから名付けられました。この堤防は現在、富士市の指定史跡となっています。
雁堤の完成により、富士川東岸の加島平野は安定し、新田開発が進みました。この地域は「加島五千石」と讃えられるまでに成長し、農産物の生産地として発展しました。
加島米は『駿河国新風土記』にも記載されるほどの名産となり、早稲の米として他村に先駆けて収穫されました。また、富士梨は塩沢茂三郎がこの地で初めて栽培を始めたものです。
雁堤の築堤には苦難が伴い、伝承では富士川を渡る百人目または千人目の旅人を人柱(生贄)としたと語られています。
雁堤のそばに鎮座する護所神社は、この人柱伝承に由来しています。境内には人柱供養塔や「雁堤人柱之碑」があり、毎年7月には祭礼が行われています。
現在、富士川の水量は減少していますが、雁堤は河川区域として国土交通省が管理しています。また、広大な堤内地は市民のグラウンドや農地として利用されています。
秋には1km以上にわたる沿道にコスモスが咲き誇り、地域の人々が手塩にかけて育てた花々はNHKなどで取り上げられるほどの名所となっています。
毎年10月の第1土曜日には、「かりがね祭り」が開催され、古郡親子三代の偉業と、氾濫での犠牲者や人柱となった僧を弔います。