摂社・末社を含めて1,300以上の浅間神社の総本宮となっており、富士山を神体として祀っています。富士山信仰の中心地として有名です。
境内は広大で、本宮社地だけで約17,000平方メートル、さらに富士山の8合目以上の領域も約3,850,000平方メートルの社地として所有しています。
本宮は富士山の南麓に位置し、奥宮は富士山の頂上にあります。
その起源は、第7代 孝霊天皇の時代に富士山が大噴火し、周辺住民が離散し土地が荒れ果てたため、第11代 垂仁天皇が浅間大神を山足の地に祀り、山霊を鎮めたことに始まると伝えられています。
本宮の境内には江戸幕府 初代 征夷大将軍の徳川家康が建立、寄進した本殿・拝殿・桜門などがあり、本殿と拝殿を幣殿で結んだ「浅間造」という特徴的な神社建築様式です。本殿は重要文化財として指定されています。
また、境内には国の特別天然記念物に指定された「湧玉池」もあり、富士山の伏流水が湧き出ており、神田川として流れています。
境内には約500本の桜が神木として植栽されており、春にはシダレザクラ、ソメイヨシノ、ヒカンザクラ、フジザクラなどが一斉に花を咲かせ、周囲を薄紅色の春の風景で包みます。
毎年5月のやぶさめ祭りや11月の秋祭りには、多くの参拝者が訪れます。
この富士山本宮浅間大社は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の世界文化遺産に登録されています。また、富士山の頂上にある奥宮や末社の久須志神社も含まれています。
概要
富士山本宮浅間大社は、静岡県富士宮市にある神社で、式内社(名神大社)であり、駿河国の一宮です。
かつては官幣大社であり、神社本庁の別表神社に属しています。社家は富士氏であり、浅間神社の総本社として位置づけられています。
この神社は、神体山として祀る神社であり、境内には2つの宮があります。本宮は富士山の南麓に位置し、奥宮は富士山の頂上にあります。
浅間大社は全国の浅間神社の総本社であり、富士山信仰の中心地として有名です。境内は広大で、本宮社地だけで約17,000平方メートル、さらに富士山の8合目以上の領域も約3,850,000平方メートルの社地として所有しています。
本宮の本殿は徳川家康によって建てられたもので、「浅間造」という特徴的な神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されています。
また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「湧玉池」もあり、国の特別天然記念物として指定されています。
この神社の祭神は木花之佐久夜毘売命であり、境内には祭神にまつわる約500本の桜が神木として奉納されています。
また、古くから富士氏が大宮司を務め、日本三大宮司の1つとしても知られています。
古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、社地が大宮・村山口登山道の起点に位置していることから、登山を行う修験者からも敬愛されてきました。
社名について
古くは『延喜式神名帳』に「浅間神社」と記載されており、明治時代には「富士山本宮浅間神社」が正式な名称でした。
1982年からは「富士山本宮浅間大社」という現在の正式名称となり、一般的には「浅間大社」と略されて呼ばれています。
「浅間」という言葉の語源にはいくつかの説がありますが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされています。
かつては「あさま」という呼称が使われており、現在の「せんげん」の表記は中世以降から用いられるようになったと考えられています。また、「本宮」は静岡浅間神社(新宮)に対する呼称として使われています。
その他、かつては「富士ノ宮」「富士本宮」「富士浅間宮」といった名称も社名として使われていました。また、「ふじの宮」という呼称もあり、北条泰時が浅間社参拝の際に詠んだ和歌にもその名前が見られます。
なお、この「ふじの宮」の呼び名が、富士宮市の市名の由来となっています。
祭神について
主祭神は「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」です。この神名は他の史書によって「木花咲耶姫命」とも記されていますが、浅間大社では『古事記』に載る表記を正式名として採用しています。
また、「木花」は桜を指す言葉であり、同書では美しい女性として表現されるだけでなく、火中での出産の伝説も記されています。
配神としては、「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」と「大山祇神(おおやまづみのかみ)」が祀られています。瓊々杵尊は木花之佐久夜毘売命の夫神であり、大山祇神は木花之佐久夜毘売命の父神とされています。
富士山と女神の信仰については古くから存在し、平安時代には「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」として表現されていました。
しかし、『古事記』や『日本書紀』に登場するコノハナノサクヤヒメが富士山の神霊として崇められたのは近世に入ってからのこととされています。それ以前は一般的に「浅間神」として信仰されていたと考えられています。
「浅間」の古称「あさま」は、阿蘇山や浅間山、朝日岳などの火山を意味する呼称とされています。都良香の記述も噴火の話題を取り上げており、この時期に「浅間神」という呼称が生まれたと考えられています。
また、江戸時代初期の文献には「コノハナノサクヤヒメ」が富士山の神霊を指す表現が見られます。この「コノハナ(木花)」は桜の古名であり、祭神の美しさに由来するとされています。
そして、「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」の伝説も火にまつわる事象として意識されたものと見られています。江戸時代以降には三島神(三嶋大社)の祭神を大山祇神と見なし、富士と三島が父子関係にある伝説も登場しました。
現在は浅間大社では木花之佐久夜毘売命が主祭神とされ、配祀神として瓊々杵尊と大山祇神が祀られています。
歴史
創建伝承について
浅間大社の起源は、寛政年間(1789年-1801年)に大宮司の富士民済によって記された社伝『富士本宮浅間社記』に詳細が記載されています。この伝承によると、浅間大社は垂仁天皇の時代に富士山麓の山足の地に創建されたとされています。
また、景行天皇の時代には日本武尊が駿河国で賊に襲われて難儀に遭いましたが、浅間大神に祈りを捧げることで難を逃れたとされています。その後、日本武尊は賊を平定した後に山宮(現在の山宮浅間神社)に磐境を設け、浅間大神を祀りました。
さらに大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を建てたとされています。なお、元々大宮の地は「福地神」という神の社地でしたが、浅間神が移られる際にこの場所も遷座し、現在の富知神社となりました。
一方、正史での富士山の噴火に関する初見は『続日本紀』の天応元年(781年)7月条にあります。それ以前の文献では富士山は穏やかな山として記されており、噴火は起こっていなかったとされています。
浅間神は火の神として崇められており、仁寿3年(853年)には従三位の神階が授けられており、富士山の噴火を鎮めるための神階昇叙が行われました。これらのことから、富士山の噴火を鎮めるために浅間神を国家として祀る必要性が生まれ、浅間大社の創建は噴火が起こってから遷座するまでの期間、つまり「天応元年(781年)から大同元年(806年)の間」と考えられています。
また、元々大宮に鎮座していた富知神社は現在は本宮境内の北方に位置しており、古くから浅間大社の祭祀に深く関わっていました。神名の「富知」は「富士」という山名と関連が深いと考えられています。
さらに、湧玉池を祭祀場として富士山を水の神として崇めていたという説もあります。これにより、浅間神の遷座は、富士信仰が水の神「フクチ・フジ」信仰から火の神「アサマ」信仰へと転換した象徴的な出来事であると解釈されています。
概史
平安時代から江戸時代までの浅間大社の歴史について
六国史によれば、浅間大社は仁寿3年(853年)に名神に叙され、その後正三位にも叙せられました。しかし、浅間神の起源はもっと古く、考えられるとされています。
貞観6年(864年)から貞観8年(866年)にかけて富士山が大噴火を起こし、朝廷ではこの噴火を浅間社の祭祀怠慢の結果と解釈しました。これにより、甲斐国でも浅間神を祀るようになり、浅間信仰が甲斐側にも広がりました。
その後も朝廷や公家、武家からの崇敬を受け、『延喜式神名帳』では「駿河国富士郡 浅間神社 名神大」として名神大社に列せられ、駿河国一宮としても崇敬されました。
駿河国府の近くには、浅間大社から勧請された「新宮」と呼ばれる浅間神社も建立されました。甲斐国の浅間神社も名神大社に列し、浅間神への崇敬の深さが伺えます。
鎌倉時代から戦国時代にかけては、源頼朝や北条義時、足利尊氏、今川範氏、武田信玄、豊臣秀吉などの実力者からの崇敬を受け、社領の寄進や社殿の造営が行われました。武田信玄は流鏑馬の奉納を行い、これが浅間大社の流鏑馬の起源とされています。
江戸時代に入ると、徳川家康やその後の将軍たちからの崇敬を受け、朱印地の安堵や社殿の造営が行われました。幕府によって祈祷が命じられることもあり、浅間大社の崇敬は絶えることはありませんでした。
明治時代以降の浅間大社の歴史について
明治時代には、皇族の方々が浅間大社を参拝される機会がありました。1896年には大正天皇、小松宮彰仁親王が参拝され、その後も昭和天皇や秩父宮雍仁親王も富士登山の折に奥宮を参拝されました。
明治時代以降の重要な出来事としては、1870年に宍野半が官選初代宮司となりました。1871年には近代社格制度のもとで「浅間神社」として国幣中社に加列され、1896年に官幣大社に昇格しました。
また、1907年には古社寺保存法により特別保護建造物に指定され、1934年には富士宮駅前に大鳥居を造営しました。
戦後は神社本庁の別表神社に加列され、1981年には岳南地域都市計画の名目で大鳥居を撤去しました。しかし、1982年には全国の浅間神社の総本宮として、それまでの「富士山本宮浅間神社」から現在の「富士山本宮浅間大社」に改名されました。
2006年には御鎮座1200年祭を催行し、大鳥居を再建しました。2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されました。
境内と本宮の社殿について
本宮
本宮の社殿は、徳川家康によって慶長9年(1604年)に建てられました。この社殿は宝永地震や安政東海地震などの地震で崩壊したこともありましたが、現在は本殿・拝殿・楼門が現存しています。
特に本殿は国の重要文化財として指定されており、桁行5間・梁間4間の寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造という珍しい形式をしています。屋根は檜皮葺で、「浅間造」と称される特徴的な形態です。
また、境内の蟇股(まがつ)には「菊花紋」と「葵紋」の組み合わせなどが付されています。さらに、富士氏の家紋である「棕櫚の紋」や菊花紋、葵紋、五三桐紋なども見られます。
これらの装飾には江戸時代の記録にも「菊葵の紋」とあるように、菊花紋と葵紋が美しく並んで飾られていました。
なお、徳川家康は関ヶ原の戦いの戦勝祈願を叶えたことから、この造営を行ったと考えられています。その際の正遷宮の儀式は非常に盛大であり、社人だけでも182人も参加したと伝えられています。
かつては境内には仏教的な建造物も存在し、神仏習合の形態が見られました。現在は見られないものの、「三重塔」といった仏教的な建築物も寛文10年(1670年)の社殿配置図に記されています。
境内には他にも拝殿と楼門があり、いずれも静岡県の指定文化財として大切に保護されています。
富士山頂上の奥宮について
富士山頂に位置する奥宮は、大宮・村山口登山道の頂上に鎮座しています。奥宮の境内地は富士箱根伊豆国立公園の富士山地域の「特別保護地区」として指定されています。
かつては富士山興法寺を形成する大日堂でしたが、神仏分離令により仏像が取り除かれ、跡地は浅間大社奥宮として管理されることになりました。
奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられ、山頂の象徴となっています。
奥宮の薬師堂はかつて山役銭の徴収場としての役割を果たしていましたが、廃仏毀釈の影響で浅間大社の末社となり、久須志神社(東北奥宮)として管理されるようになりました。
奥宮の御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれており、建物内には「高齢者記帳所」が設置されています。
7月11日には開山祭が行われ、8月末まで神職が常駐して祭事やお守りの授与を行います。奥宮の例大祭は8月15日に執り行われます。
9月の閉山祭以降は、翌年の開山まで無人となります。
奥宮境内地の歴史
江戸時代には、徳川家康の庇護の下で浅間大社は山頂部を管理し、本殿などの建造や山頂の特権を持つようになりました。1779年には幕府により正式に八合目以上の支配権が認められ、以降現在まで続いています。
奥宮に寄進された土地は一時国有化されることもありましたが、法律の適用により浅間大社側に返還されました。2004年にこの土地の返還が確定しましたが、県境が未確定のため、土地登記は行われていません。
山頂信仰遺跡には古代から神聖な場所として寄進や奉納が行われ、多くの宗教的施設が存在していましたが、廃仏毀釈により多くが撤去されました。現在も山頂には信仰遺跡の一部が残っています。
奥宮の特別製の御朱印は、富士山の溶岩の砂が含まれたもので、高齢者登拝者名簿に記帳すると記念品が授けられることになっています。この記帳は1960年から行われており、奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱われています。
重要文化財(国指定)
特別天然記念物(国指定)
静岡県指定文化財
有形文化財
無形民俗文化財
富士宮市指定文化財
有形文化財
無形民俗文化財
その他の文化財
開門時間
11月~2月 6:00~19:00
3月・10月 5:30~19:30
4月~9月 5:00~20:00
無休
無料
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