浅間古墳は、静岡県富士市増川西村にある須津古墳群の増川I群に属する前方後方墳で、国の史跡に指定されています。東海地方最大の前方後方墳であり、地元では「浅間さん」という愛称で親しまれています。
墳頂部には浅間神社が祀られており、「浅間神社古墳」とも呼ばれます。考古学上の正式名称は「増川I第一号古墳」です。
須津古墳群は、209基以上の古墳から構成されており、その中でも浅間古墳は増川I群に属しています。須津古墳群で最古の古墳であり、中心的な存在です。4世紀後半から5世紀初頭に築造されたと推定され、この地域で重要な政治的・社会的役割を果たしていました。
浅間古墳は、愛鷹山麓から延びる丘陵の先端部に位置し、標高53mの高さから周囲の平野を見下ろす立地にあります。この地形は、古墳時代における政治的モニュメントとしての特徴を表し、権力を誇示するための視覚的効果を意識して築造されました。
墳頂部からは富士山や駿河湾を望むことができ、当時の支配者が自然景観と権力を象徴的に結びつけたことがうかがえます。また、海上からの目印としての役割も果たしていたと考えられています。
浅間古墳の墳丘全体には直径20〜50cmの河原石が敷き詰められており、土留めや草木の繁茂防止、墳丘の偉容さを表すための葺石とされています。
墳丘の周囲には周溝が残されており、一部は空濠として利用されていました。これにより墳丘を強調する役割を果たしています。
浅間古墳は4世紀後半から5世紀初頭に築造されたと推定されています。墳丘の立地や葺石の存在などから、古墳時代前期〜中期の特徴を持つ古墳とされています。
浅間古墳の被葬者は、この地域を支配していた珠流河国造であると考えられています。この説は、古墳の規模や地域的な重要性から支持されています。
別の説では、初代珠流河国造である片堅石命が被葬者であるとされています。浅間古墳の規模や位置は、地域の支配者の墓としてふさわしいものとされています。
浅間古墳周辺には、根方街道沿いに多数の古墳や遺跡が点在しており、それぞれの集落が交流し、密接な地域社会を形成していたことが考えられます。
浅間古墳は、駿河地方における壮大な墳丘として歴史的・文化的価値が高く、1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されました。地元のシンボルとして、また考古学的な研究対象として注目されています。