屋台曳き廻し
春と秋の空の下、国の重要有形民俗文化財である八幡祭の屋台12台が曳き揃えられます。屋台の彫刻や見送幕、構造の細部まで鑑賞でき、多くの人々が感嘆の声をあげます。
からくり奉納
八幡宮境内では、1日2回、布袋台によるからくり奉納が披露されます。綱さばきによる動きとは思えない人形たちの演技を見ることができます。
宵祭
夕方から始まる宵祭では、それぞれの屋台に100個もの提灯が灯され、町を巡ります。伝統の曳き別れ歌「高い山」を歌いながら各屋台蔵へと帰っていく姿は、秋の情感をかきたてます。
歴史・沿革
山王祭は江戸時代前半、元禄5年(1692年)の記録により、飛騨高山藩主金森頼直治世下の慶安5年(1652年)まで遡ることができます。ただし、この時点では屋台が曳行された記録はありません。屋台の創建は宝暦年間であることから、それ以降に祭に加わったと考えられます。山王祭の氏子は安川通り以南の上町の住民で、屋台組や神輿組が祭に奉仕しています。神輿が闘鶏楽や警固、獅子舞などと練り歩く祭行列は御巡幸と称し、正徳6年(1716年)まで遡ることができます。昭和49年(1949年)に兀下徳之助が考案した獅子舞が現在行われています。
八幡祭は享保元年(1716年)の記録が最も古く、享保3年に4台の屋台を曳いた記録があります。寛政8年(1796年)の高山の安川通り北側での大火や、明治8年(1875年)の火災で多くの屋台が焼失しています。こちらの氏子は安川通り以北の下町の住民で、祭を取り仕切るのは4つの屋台組から選ばれる年行司と副年行司です。神輿が闘鶏楽や警固、獅子舞、大榊などと練り歩く祭行列は御神幸と称し、獅子舞は延宝年間まで遡るとされています。
初期の屋台は祭の度に建造と解体を繰り返していましたが、天保年間の火災を契機に屋台蔵が普及し、屋台の寿命が延びました。江戸時代には高山の町に多くの豪商がおり、京都から織物や金具を買い付けて華やかさを競いました。第二次世界大戦後、高山祭を支えていた豪商が没落し、屋台の維持管理が困難になったため、1951年(昭和26年)に高山屋台保存会が結成されました。これ以降、二つの祭りは高山祭と呼ばれ、文化財として一括して扱われるようになりましたが、祭りを担う屋台組や組織は独立しています。
1968年(昭和43年)に桜山八幡神社境内に高山祭屋台会館が竣工し、八幡祭の屋台が通年で見られるようになりました。
桜山八幡宮
飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という凶族を討伐するために、朝廷より飛騨国に入った武振熊命が戦勝祈願のために桜山(櫻山)の神域に先代の応神天皇を祀ったのに始まると伝えられています。
境内には、火防鎮護の神「秋葉神社」、菅原道真公を祀る「天満神社」、五穀豊穣や商売繁盛の神「稲荷神社」、海上交通安全の「琴平神社」、武勇の神や歯の神を祀る「照前神社」といった末社があり、散策しながらゆっくりとお参りできます。
高山祭屋台会館
櫻山八幡宮の境内にある全国でも珍しい本物の祭屋台を展示している施設です。秋の高山祭に曳き出される絢爛豪華な実物の屋台(国指定重要有形文化財)を間近で見ることができます。