伽藍
四天王寺は、境内中央南寄りに回廊で囲まれた中心伽藍を持ち、その北には六時堂(六時礼讃堂)、東には聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)が配置されています。 境内西部には四天王寺中学校・高等学校の校地があり、北側には庭園がある本坊や墓地が広がります。
主な入口
境内南端の南大門、東端の東大門、西入口の石鳥居が主な参拝口です。 特に石鳥居は「極楽浄土の入口」として多くの参拝者が訪れます。
中心伽藍
四天王寺式伽藍配置を踏襲した中心伽藍は、中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が南北一直線に配置され、回廊がその左右を囲みます。 これらは戦後に鉄筋コンクリート造で再建され、創建当時の様式を再現しています。
金堂
金堂は、1961年(昭和36年)に再建された建物で、入母屋造りの屋根を持ち、外観は法隆寺の金堂に似ていますが、裳階(もこし)がない点で異なります。
内部には本尊である救世観音菩薩像が安置され、左に舎利塔、右に六重塔が配されています。本尊像の周囲には四天王像が立ち並び、壁面には中村岳陵による「仏伝図」の壁画が描かれています。
また、金堂は新西国三十三箇所第1番札所や西国三十三所番外霊場札所など、多くの霊場巡りの札所としても有名です。
本尊 - 救世観音菩薩像
救世観音菩薩像は彫刻家平櫛田中の指導のもと造像された半跏像で、右手を施無畏印とし、慈悲深い表情が特徴です。仏壇四隅に立つ四天王像は松久朋琳・宗琳による作品です。
五重塔
現在の五重塔は1959年(昭和34年)に再建された8代目の塔で、「六道利救の塔」とも呼ばれます。塔内には山下摩起による仏画が描かれ、最上階の五重目まで階段で登ることができます。
講堂(講法堂)
講堂は入母屋造り単層の建物で、堂内は「夏堂」と「冬堂」に分かれ、それぞれ阿弥陀如来坐像と十一面観音立像が本尊として祀られています。壁面には郷倉千靭による「仏教東漸」の壁画が描かれています。
その他の見どころ
六時堂
六時堂は重要文化財に指定され、1623年(元和9年)に徳川秀忠によって建立されました。堂内には薬師如来坐像と四天王像が安置されています。西国薬師四十九霊場第16番札所としても知られています。
石舞台
石舞台は「日本三舞台」の一つとされ、六時堂の手前にある「亀の池」の中央に位置します。毎年4月22日の聖霊会では、ここで雅楽が披露されます。四天王寺の雅楽は日本最古の様式を持つとされ、「雅亮会」によってその伝統が継承されています。
中門(仁王門)
中門は「仁王門」とも呼ばれ、松久朋琳・宗琳作の金剛力士像が安置されています。仁王像の大きさは東大寺南大門の仁王像に次ぐ規模を誇ります。
亀井堂
亀井堂は1955年(昭和30年)に再建され、亀形石が注目を集めています。 この石は7世紀に造られたと推測され、国家的管理のもとで祭祀が行われていた可能性があります。 2023年には大阪市指定有形文化財に指定されました。
本坊
本坊は、僧侶の居住や修行の場として利用されてきた場所で、庭園や茶室など多彩な見どころがあります。
五智光院(重要文化財)
灌頂堂とも呼ばれる五智光院は、元和9年(1623年)に徳川秀忠によって再建されました。入母屋造りの瓦葺きで、大日如来を中心とした五智如来像が安置されています。徳川将軍家の位牌を納めていることから、御霊舎とも呼ばれます。
本坊庭園
本坊庭園には、「補陀落の庭」と「極楽浄土の庭」という二つの庭園があります。「極楽浄土の庭」は、池泉回遊式庭園で、「極楽の池」と「瑠璃光の池」が特徴的です。
茶室
- 払塵亭
- 和松庵 - 松下幸之助の寄進による茶室。
- 臨池亭
- 青龍亭(登録有形文化財)
八角亭(登録有形文化財)
1903年に建設され、当時行われた第5回内国勧業博覧会の建物が移築されました。現存する唯一の博覧会建築です。
その他の施設
- 荒陵稲荷大明神
- 吒枳尼天社
- 宝蔵(大阪市指定有形文化財)
- 本坊唐門(登録有形文化財)
- 本坊西通用門(重要文化財)
元三大師堂(重要文化財)
元和4年(1618年)に建立された寄棟造の堂です。元三大師良源を祀るこの堂は、境内西北の墓域に位置しています。
その他の見どころ
地蔵堂
境内各所や付近から集められた地蔵菩薩を祀っています。
英霊堂(大阪市指定有形文化財)
元は「聖徳皇太子頌徳鐘」が設置されていた鐘楼で、後に仏堂として改築されました。天井画の雲龍図は森下博による寄進で、湯川松堂が描いたものです。
石鳥居(重要文化財)
永仁2年(1294年)に建てられた石鳥居で、神仏習合時代の名残を伝えています。扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と刻まれています。
西大門(極楽門)
松下幸之助の寄進により1962年に再建されました。極楽への入口とされ、西の夕日を拝する聖地です。
飛び地境内
四天王寺病院
国道25号により本境内から分断されています。
庚申堂
庚申信仰に基づき、青面金剛童子や四天王を祀る堂です。元は慶長年間に豊臣秀頼が再建しましたが、大阪大空襲で焼失。その後、日本万国博覧会の建物が移築されました。
真光院
支院で、六万体の石造地蔵尊を祀っています。
歴史
『日本書紀』に見る創建の経緯
四天王寺は、蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本で最も古い本格的な仏教寺院の一つです。その創建の経緯について『日本書紀』は次のように伝えています。
用明天皇2年(587年)、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が激しい戦いを繰り広げました。この戦いで、聖徳太子こと厩戸皇子は四天王の像を作り、勝利を願いました。その結果、蘇我氏が勝利を収め、その後推古天皇元年(593年)に四天王寺の建立が始まりました。
創建の詳細
四天王寺は、南から北に向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に配置される伽藍配置が特徴です。寺院の基盤には物部氏から没収した土地や奴婢が使われたと伝えられています。
また、創建瓦の出土により、推古朝には既に四天王寺が存在していたことが考古学的に確認されています。斑鳩寺(法隆寺)の若草伽藍と四天王寺の瓦が同笵であることから、両寺の建設が密接に関連していたこともわかります。
創建に関わる異説
四天王寺は当初現在地ではなく、上町台地北部の玉造(現・大阪市森ノ宮駅付近)にあったという説もあります。その後、推古天皇元年(593年)から現在地での本格的な伽藍造営が始まったとされています。
また、建立の動機についても物部守屋の一族の霊を鎮めるためとする説があります。四天王寺には守屋祠があり、寺院の伝説や建築配置にその意図が反映されている可能性があります。
四天王寺七宮
四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建する際に外護として造営された7つの神社群を指します。
- 大江神社
- 上之宮神社
- 小儀神社
- 久保神社
- 土塔神社
- 河堀稲生神社
- 堀越神社
これらの神社を中心に形成された集落が、現在の東成郡天王寺村に発展しました。
四箇院
四箇院の役割
聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置しました。これは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つで構成されます。
- 敬田院: 寺院そのもの。
- 施薬院: 薬草園および薬局に相当。
- 療病院: 現代の病院に近い施設。
- 悲田院: 身寄りのない老人や病者を救済する福祉施設。
鎌倉時代には四箇院が機能していた記録があり、現代の社会福祉の先駆けと言えます。
平安時代
四天王寺は度重なる災害の影響で、創建当初の建物は失われており、現存する最古の遺構は平安時代以降のものとなっています。承和3年(836年)には落雷で初代五重塔が破損し、天徳4年(960年)には火災によって全山が焼失しました。
聖徳太子は日本仏教の祖として広く信仰されており、その創建にかかわる四天王寺は太子信仰の中心地となりました。四天王寺の西門は西方極楽浄土への入口とされ、浄土信仰を集める聖地として多くの信者が訪れました。
特に『四天王寺縁起』は太子信仰を広める重要な役割を果たしました。この縁起は伝承では聖徳太子の自筆とされますが、実際には平安時代中期の書写とされています。後醍醐天皇もこれを筆写し、巻末に手印を残しており、これは国宝として現存しています。
鎌倉時代以降
災害と復興
康安元年(1361年)には地震で金堂が倒壊し、その後復興しましたが、応仁の乱では放火により再び焼失しました。天正4年(1576年)には石山合戦に巻き込まれ、天王寺砦への火が四天王寺にも及び、全焼しました。
豊臣時代の復興
天正12年(1584年)には金堂が再建され、豊臣秀吉による復興が進められました。重層の金堂や庚申堂、五重塔などが再建され、慶長6年(1601年)には秀頼が寺領を寄進しました。
江戸時代の再建
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で再び焼失しましたが、徳川家康の指示により再建が進められました。元和9年(1623年)には伽藍の再建が完成しました。しかし、享和元年(1801年)の落雷で五重塔や金堂が焼失し、その後文化10年(1813年)に再建されました。
明治時代以降
廃仏毀釈の影響
明治時代には神仏分離政策により、四天王寺の鎮守社であった安居神社が分離・独立しました。また、主要伽藍以外の境内地が国有化され、一部は公園化されました。それでも、1879年(明治12年)には聖霊院が再建されています。
昭和期の被害と再建
昭和9年(1934年)の室戸台風では五重塔が倒壊し、大きな被害を受けました。その後、1940年(昭和15年)に7代目五重塔が再建されましたが、太平洋戦争末期の大阪大空襲で再び焼失しました。
戦後の復興
戦後、四天王寺は天台宗から独立して和宗を創設し、総本山となりました。現存する中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建が進められ、1963年(昭和38年)に完成しました。現在の五重塔は8代目であり、鉄筋コンクリート造ですが、飛鳥建築の様式を忠実に再現しています。
現代の四天王寺
2020年(令和2年)の新型コロナウイルス感染拡大防止のため、四天王寺は6月8日まで一時閉鎖されました。これは創建以来初めてのことでしたが、現在は多くの参拝者を迎え入れる場所として再び賑わいを見せています。
文化財
国宝に指定された文化財
紙本著色扇面法華経冊子
平安時代に制作されたこの冊子は、扇形の紙に極彩色で描かれた下絵と、金銀箔で装飾された法華経が特徴です。 絵画と書跡の両面から貴重な資料で、平安時代の芸術を物語っています。
懸守
懸守(かけまもり)は、平安時代の女性が使用したアクセサリーで、現在7点が現存しています。 繊細な工芸技術と時代の文化が反映されています。
七星剣と丙子椒林剣
これらの剣は上古刀の優品とされ、いずれも東京国立博物館に寄託されています。特に七星剣は星を模した装飾が施され、その神秘的な美しさが目を引きます。
金銅威奈大村骨蔵器
明和年間に発見されたこの骨蔵器は、大和国から四天王寺に寄贈されました。現在は京都国立博物館に保管されています。
重要文化財
建造物
四天王寺鳥居
永仁2年(1294年)に建立された鳥居で、嘉暦元年(1326年)の銘を持つ扁額が特徴です。 付属する左右玉垣も歴史的価値が高いとされています。
本坊と関連建築
本坊西通用門、方丈(湯屋方丈)、五智光院、六時堂、元三大師堂、石舞台など、6棟が重要文化財として指定されています。 これらは四天王寺の宗教的・文化的な中心を成しています。
美術工芸品
金銅観世音菩薩半跏像
優雅な姿勢で表現された菩薩像で、その美術的価値は非常に高いと評価されています。
舞楽面と仏像
納曾利と陵王の舞楽面や千手観音など、多数の仏像が重要文化財として保護されています。 特に舞楽面は、天王寺舞楽の伝統を現在に伝える貴重な遺産です。
無形文化財
聖霊会の舞楽
四天王寺で行われる舞楽は、天王寺楽所の伝統を引き継ぎ、日本最古の様式を伝えるものです。 この舞楽は重要無形民俗文化財に指定されています。
史跡と庭園
四天王寺旧境内
1951年に国指定史跡となった旧境内は、寺院の歴史的背景を物語る重要なエリアです。1956年には追加指定が行われました。
八角亭と庭園
本坊庭園内にある八角亭は、1903年の内国勧業博覧会の待合所として建設されました。 現在もその歴史的な意匠を保ちながら登録有形文化財となっています。
地方指定文化財
大阪府指定文化財
四天王寺には、石像地蔵菩薩立像や刺繍青面金剛画像など、多数の大阪府指定文化財があります。これらは四天王寺の宗教的価値を高めています。
大阪市指定文化財
中之門や宝蔵、亀形石槽など、多数の有形文化財が大阪市によって指定されています。また、庚申まいりやちょんな始め式などの無形文化財も保護されています。