江戸幕府の代官を代々務めた江川家の武家屋敷であり、江戸時代初期に建てられた邸宅は現存する邸宅建築物の中でも最も古いものです。
国指定史跡「韮山役所跡」の中にあります。江川家は韮山県を統制していた名族でした。
東側の平地部分と西側の天神山からなる敷地で、形状は直角三角形で、東西約150メートル、南北約200メートルの広さです。
主屋を中心に、表門、書院、東蔵を含む5棟の蔵が立ち並んでいます。
主屋は約1600年に建てられた壮大な建物で、特徴的な単層入母屋造りと幾何学的な屋根裏の木組みが免震構造として知られています。
江川英龍の父である英毅によって改築や増築も行われました。
昭和初期の修理で入母屋造総葺きから銅板葺きに変わりましたが、そのままの形で現代に伝えられ、保存されています。
主屋の天井や大屋根の豪壮な架構も見応えがあります。特に力学的に組まれた天井と立木をそのまま利用した生柱は見どころです。
主屋には50坪もある広い土間があり、竃(かまど)も設置されています。現在では竃に火を入れるのは機会は少なく、具足開きやお会式、そしてパンの記念日などに使われます。
主屋の内部には貴重な遺物が展示されており、伝説の「生き柱」や日蓮聖人から贈られた「火伏せの護符」を納めた棟札箱が見られます。
江川家は火災に遭遇したことがなく、そのため文書類、書画、武具など様々な品が残されています。これらの展示品は約10万点にも及びます。
美しい庭園は孟宗竹に囲まれ、梅、桜、楓が彩りを添えています。内庭には池があり、南西方向には韮山竹の群生と「明奉社」という社もあります。
また、36代当主太郎左衛門英龍が兵士の携帯食として最初にパンを取り入れたことを記念する「パン祖の碑」も庭園内にあります。
貴重な建造物として建築史上高く評価され、国指定の重要文化財として指定されています。
文化財
江川家住宅は7棟あり、主屋、書院、仏間、東蔵、肥料蔵、武器庫、表門が重要文化財に指定されています。
また、土地(宅地および鎮守社の境内地)も重要文化財に指定されており、周辺の池や井戸も含まれています。
さらに、北米蔵、南米蔵、裏門、鎮守社、土塀、板塀なども付属しています。また、造営関連文書も附指定されています。
さらに、江川家関係の資料として、文書・記録類、著述稿本類、和書・漢籍類、訳書類、洋書類、書画類、武器・武具類、器物類などが38,581点あります。
また、江川家関係の写真は461点収められています。貴重な歴史的遺産として保管・公開されています。
韮山代官所(にらやまだいかんしょ)
江川邸は、国指定史跡「韮山役所跡」の中にあり、韮山代官所として江戸時代に東国の幕府直轄領を支配するために設置された役所の一部としても知られています。
江戸時代に設置された韮山代官所は、東国の幕府直轄領を統治する役所で、その管轄地域は伊豆国を中心にして、駿河国・相模国・武蔵国、後には甲斐国まで広がりました。
時折、伊豆諸島も管轄下におかれたことがあります。代官の石高は5 - 10万石余で、江川家の子孫が代々代官として統治しました。
韮山代官所は江戸本所と韮山に存在し、江川家の屋敷内に置かれていました。通常、代官は夏は江戸、冬は韮山に常駐していました。
江戸役所では武蔵・相模・甲斐を、韮山役所では伊豆・駿河を担当していました。
また、韮山代官の業務を補佐するために三島陣屋、谷村陣屋、松岡陣屋、荒川分一番所などが設置されました。
始まりは慶長元年(1596年)に江川英長が伊豆代官職に任命されたことでした。江川家は伊豆国の一部を管轄していましたが、元禄年間以降に支配領域を拡大していきました。
1723年には代官職が一時的に罷免されましたが、後に復帰し、伊豆国の幕府領を完全に支配しました。江川氏は明治維新まで代々韮山代官を世襲しました。
江川 英龍
江川英龍(えがわ ひでたつ、1801年-1855年)は、江戸時代後期の幕臣であり、伊豆韮山代官を務めました。
通称は太郎左衛門、号は坦庵(たんあん)としても知られています。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが一般的です。
江川家の36代である江川太郎左衛門英龍(坦庵)は名代官として海防に注力し、沿岸測量や韮山反射炉、お台場の建設、わが国初の洋式帆船建造、種痘の実施、そして日本初のパン製造など、多くの功績を残しました。邸内には「パン祖の碑」が立てられています。
当時、日本列島周辺に欧米列強の船舶が頻繁に現れるようになり、洋学と特に近代的な海防手法に大きな興味を抱いた英龍は、反射炉を築き、西洋砲術を日本に普及させました。
英龍は地方の代官でありながら、海防に関する建言を行い、異例の昇進を果たし、幕閣入りを果たす直前に病没しました。
また、英龍は西洋式のパンを焼いたことでも知られており、現代では「パン祖(そ)」とも呼ばれています。
江川家は大和源氏の系統で、鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄であり、江戸時代には伊豆韮山代官として民政に従事しました。英龍はその36代目の当主でした。
彼は兄の死去により英毅の嫡子となり、代官見習いとしての訓練を受け、父の死後、34歳で代官となりました。代官になる前は多くの士と交友し、剣術を学んだり、代官地の領内を歩き回っていたとされます。
英龍の統治地である甲斐国では大規模な騒動が起こり、無宿(博徒)も参加していました。英龍は騒動が幕領を含む他の地域に波及することを懸念し、甲斐へ向かって密かに調査に出かけました(甲州微行)。
その後も彼の施政は公正であり、領民の信頼を得ることに成功しました。また、種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進しました。領民たちは彼を「世直し江川大明神」と敬愛しました。
江戸時代の後半から、日本近海に外国船が現れることが増え、幕府は外国船打払令を制定して対処しました。英龍は早くから洋学者幡崎鼎に学び、海防についての建議を行いました。
その後、江戸湾の防備強化のために巡検が行われ、西洋砲術の導入を進める一方で、海防強化の必要性を広めるために全国の藩士に教育を施すために「江川塾」を開設しました。
英龍は長崎に渡り、高島秋帆に弟子入りして近代砲術を学び、それを更に改良した西洋砲術の普及に尽力しました。
彼の海防強化策は一部実現しましたが、幕府の政策転換や時の老中・阿部正弘の消極的な姿勢により、完全には実現されませんでした。
英龍は農兵軍の組織や爆裂砲弾の研究開発を含む近代的装備についても検討していましたが、多忙な日々により体調を崩し、1855年に病没しました。享年は55歳でした。
彼の死後、長男の英敏が農兵軍の編成に成功しました。また、英敏の後を継いだ英武は韮山県県令として活躍しました。英龍の娘である英子は木戸孝允の養女となり、外交官夫人として活躍しました。
江川英龍は、幼少から学問や剣術、絵画など、幅広い教育を受けていました。また、国防上の観点から兵糧パンの重要性に着目し、日本で初めて兵糧パンを焼きました。そのため、「パン祖」と呼ばれるほどです。
さらに、近代的な西洋式軍隊を組織し、「気をつけ」「右向け右」「回れ右」などの号令・掛け声を考案しました。
彼の影響力は多岐にわたり、林業にも精通し、高尾山に植林を行いました。また、将軍家定の御前でペリーから献上された蒸気機関車を初めて運転したとされています。
福澤諭吉も彼を英雄として取り上げ、江川家の屋敷は後に慶應義塾舎となりました。
一方で、彼は海防論者として頑固な性格で、開国前に海防の重要性を唱えた他の人物とは異なり、開国・通商論には転じませんでした。
江川英龍は、多くの分野で先駆的な取り組みを行い、日本における近代化に貢献した人物でした。
9:00~16:30(水曜日のみ 9:00~15:00)
第三水曜日
年末年始
大人 650円
小中学生 300円
伊豆箱根鉄道 韮山駅からバスで5分
東名高速道路 沼津IC より車で約30分
新東名高速道路 長泉沼津IC より車で約30分