髙草家と脇本陣の役割
本陣を補佐した宿泊施設
髙草家住宅は、旧矢掛本陣石井家から東へ約400メートルの場所に位置しています。江戸時代の脇本陣は、本陣だけでは宿泊者を収容できない場合などに、大名や家老、幕府関係者らの宿泊や休憩に利用された施設です。
山陽道の宿場町として発展した矢掛宿では、本陣と脇本陣が街道交通を支える重要な役割を果たしていました。髙草家もその一翼を担い、参勤交代などで往来する人々を迎えてきました。
地域社会を支えた有力な旧家
髙草家は、金融業によって財を築き、庭瀬藩の掛屋や小田郡の大庄屋を務めました。宿場の運営に関わるだけでなく、地域の経済や行政にも深く関与していたとされています。
また、矢掛村の中心集落であった古市が大火に見舞われた際には、髙草家が復興に貢献したと伝えられています。こうした歩みから、髙草家が矢掛宿の発展と地域社会に大きな影響を与えてきたことがうかがえます。
旧矢掛脇本陣髙草家住宅の建築
白壁と張瓦が美しい屋敷構え
髙草家住宅の大きな特徴は、白壁と張瓦の美しい対比です。旧山陽道に面した広い敷地には、主屋や蔵座敷、内倉、大倉、中倉、門倉など、合計9棟の建物が残されています。
敷地の間口は14間あり、街道沿いに広がる屋敷構えからは、脇本陣としての格式と、商家としての繁栄を感じることができます。建物群は、19世紀初頭から中頃にかけての屋敷の様子を伝える貴重な遺構です。
主屋の構造と屋根
主屋は、桁行約16.2メートル、梁間約8.9メートルの規模を持ち、一部が二階建ての入母屋造となっています。屋根には本瓦葺きが採用され、重厚な外観を形づくっています。
建物の一部には、宝暦14年(1764年)の墨書銘が確認されています。建築年代に関する手掛かりを残している点も、髙草家住宅の歴史的価値を考えるうえで重要です。
敷地内に並ぶ蔵の数々
髙草家の敷地には、主屋のほか、蔵座敷や内倉、大倉、中倉、門倉などの建物が配置されています。特に蔵が複数残されていることから、商家としての機能や財産を守るための工夫をうかがうことができます。
これらの建物は、脇本陣として客を迎えるための空間と、家業を支える実用的な施設が一体となった屋敷の姿を伝えています。街道沿いに発展した有力商家の暮らしや経営の様子を知るうえでも、貴重な建築群です。
建物の保存状況と文化財指定
江戸時代の屋敷構えを今に伝える
髙草家住宅の建物群は、19世紀初頭から中頃にかけての屋敷構えをよく残しています。表門は明治初期に移築されたものですが、それ以外の建物や敷地は、歴史的な配置や姿を伝えています。
こうした保存状態の良さにより、旧矢掛脇本陣髙草家住宅は、山陽道における脇本陣の構成を知ることのできる貴重な文化遺産として評価されています。
国の重要文化財
髙草家住宅の建物群は、国の重要文化財に指定されています。主屋をはじめとする9棟の建造物が保存され、宿場町の歴史と建築文化を後世に伝えています。
白壁や張瓦、入母屋造の屋根、複数の蔵を備えた広い敷地など、建物の細部や配置には、当時の脇本陣の特徴が表れています。建物群を通して、江戸時代の街道交通や商家の暮らしを具体的に知ることができます。
矢掛宿の発展と髙草家
山陽道の宿場町としての歩み
矢掛宿は、江戸時代に山陽道の宿場町として大きく発展しました。その歴史的背景には、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、備中の地を治めた小堀新助と、その子である政一(小堀遠州)による地域整備があったとされています。
街道交通が発達するにつれて、矢掛宿には旅人や大名行列などが往来し、宿泊や休憩、物資の流通を支える施設が整えられていきました。髙草家の屋敷も、こうした宿場町の発展とともに重要性を増していきました。
宿場町の歴史を伝える二つの文化財
矢掛町では、旧矢掛本陣石井家と旧矢掛脇本陣髙草家住宅が、ともに往時の姿を残し、国の重要文化財に指定されています。本陣と脇本陣の建物がそろって保存されていることは、矢掛宿の歴史を理解するうえで大きな意義があります。
本陣と脇本陣をあわせて見ることで、大名や幕府関係者を迎えた宿場の仕組みや、当時の建築、地域の経済活動について、より深く知ることができます。
歴史的建造物を未来へ伝える
旧矢掛脇本陣髙草家住宅は、国の重要文化財として保存されるとともに、矢掛町の歴史と文化を伝える観光資源としても大切にされています。広い敷地に残る建物群や、街道沿いの景観からは、江戸時代の宿場町の繁栄を感じることができます。
旧矢掛本陣石井家とあわせて訪れることで、矢掛宿が果たした役割や、本陣と脇本陣の違いについても理解を深められます。歴史ある建築と地域の歩みに触れながら、宿場町ならではの風情を味わってみてはいかがでしょうか。