龍潭寺は1万坪を超える広大な境内を誇り、遠州を訪れたら必ず訪れたい屈指の名刹です。
北側には山並みが迫り、南側には広がる田園風景が美しい場所です。同じエリアには後醍醐天皇の第四子が眠る「宗良親王墓」やそれを祀る「井伊谷宮」もあり、深い歴史の雰囲気に包まれています。
境内には寛永8年(1631年)に建立された東門(旧鐘楼堂)、明暦2年(1656年)に再建修理された大門(山門)、延宝4年(1676年)に建てられた本堂など、江戸時代初期の建造物が数多く存在します。
龍潭寺には見どころが多く、江戸時代初期に活躍した伝説的な彫刻職人、左甚五郎の作と言われる山堂の「龍の彫刻」や、本堂の「鶯張りの廊下」、多才な芸術家、森川許六の襖絵、井伊家ゆかりの茶室などがあります。
龍潭寺は禅宗系の寺院なので、建物に華美な装飾はありませんが、その質素な美しさが際立っています。
本堂には享保14年(1729年)に建立された木彫寄木造りの釈迦如来座像や、旭英筆の「龍虎襖絵」などがあります。また、本堂の南側には浜名湖を表現したと言われる「補蛇落の庭」が広がっています。
特に必見は、国の指定文化財として名勝記念物に指定された庭園です。この庭園は茶人、書家、建築家、作庭家として活躍した稀有な芸術家である小堀遠州によって設計されました。
中央に守護石、左右に仁王意志、正面に座禅石が配置され、池は「心」の字の形を成す代表的な寺院庭園です。
石と水は明るく穏やかで澄み切り、春は「さつき」、秋は「どうだん」と季節に応じた花が咲き乱れて、常に表情を変えます。本堂から眺めると、悠久の時を感じる凛とした佇まいが心を癒してくれます。
歴史
龍潭寺は、寺伝によれば天平5年(733年)に、奈良時代の高僧、行基菩薩によって創建された寺院で、山号は万松山です。本尊は虚空蔵菩薩を祀っています。
最初は地蔵寺と呼ばれていました。しかし、1093年に井伊共保が葬られた際にその法号にちなんで自浄寺と改名されました。
井伊氏の菩提寺とされ、平安時代から現在まで約1000年間、井伊家の菩提寺として40代にわたって受け継がれています。
室町時代には宗良親王(後醍醐天皇の皇子)によって再興されたとも言われています。
後に、1507年に井伊直平が黙宗瑞淵を招き、寺号を龍泰寺に改めました。そして、戦国時代の1560年に井伊直盛が戦死し、その法号から龍潭寺と名付けられました。
この寺は井伊谷という地域にあり、井伊谷川と神宮寺川が合流する豊かな水源地で、「龍」の名前は水神の龍を指します。
井伊直盛の死後、井伊家の当主であった井伊直親や井伊直盛の娘で井伊家を取り仕切った井伊直虎(おんな城主)の墓もこの寺に存在し、井伊直親と井伊直虎の墓は隣り合っています。
井伊家伝記によれば、小牧・長久手の戦いで井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺から伝わる「日月松有之金銀の扇子」が陣扇として授けられたとされています。
関ヶ原の戦いに勝利した後、井伊氏は近江国に転封されましたが、龍潭寺は引き続き井伊氏の保護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられました。
戦国時代には徳川家康の家臣であり、江戸幕府の樹立を支えた徳川家臣の「四天王」の一人である井伊直政や、直政が幼少時に井伊家を守るために活躍した女城主の井伊直虎も先祖や子孫と共にここに眠っています。
墓所には初代から24代までの井伊直政までの供養塔がコの字形に並んでおり、中央には井伊家初代の共保公とその戒名から由来する22代の直盛公の供養塔があります。
南側には直親や直政などの名前が刻まれた五基の供養塔があります。直虎の供養塔は直親の隣にあり、石の腐食が激しく名前が読み取れない一基もあるが、それが直虎の供養塔とされています。
直虎(幼名は不明)は、許嫁の直親と離ればなれになった後、龍潭寺で出家し、井伊家の跡継ぎを意味する「次郎」法師の名を井伊家を支えた住職・南渓和尚によって与えられました。
その後、直虎はこの寺で修行し、女城主となってから一時城を追われた時も寺内の庵で過ごしたとされています。
文化財
龍潭寺の文化財としては、池泉鑑賞式庭園が名勝に指定されており、寺伝によれば小堀遠州によって作庭されました。
季節や時間帯によって異なる表情を見せ、多くの人々を魅了しています。本堂の回廊から庭を眺められる席もあり、ゆったりと庭園を楽しむことができます。
また、国指定重要文化財の宋版錦繍万花谷3冊(金沢文庫本)や静岡県指定の龍潭寺伽藍6棟(本堂、庫裏、山門、開山堂、井伊家霊屋、稲荷堂)などがあります。
井伊直虎(おんな城主)の生涯
井伊直虎は井伊家の第22代当主、井伊直盛の娘として天文5年(約1536年)に生まれました。直盛には男子がおらず、周囲から直虎は幼少期からいとこの井伊亀之丞を養子に迎えるよう求められていました。つまり、直虎と亀之丞はいいなずけの関係でした。
天文13年(1544年)、亀之丞の父・直満が今川義元に殺されると、亀之丞は身を隠すために信州へ逃れます。直虎はしばらく亀之丞の帰還を待ちましたが、やがて亀之丞は死んだと思い込み、龍潭寺の南渓和尚のもとで出家しました。次郎法師と名乗り、亀之丞の冥福を祈りました。
しかし、天文24年(1555年)に亀之丞が井伊谷に戻ってきます。既に出家していた次郎法師は結婚できないため、亀之丞は直盛の養子になり、直親(なおちか)と名乗って別の女性と結婚します。
その後、永禄3年(1560年)に父・直盛が桶狭間の戦いで戦死し、直親も掛川城下で謀殺されます。この時点で井伊の名を継ぐ男子は直親の子、虎松(後の直政)だけになりました。
虎松はまだ幼かったため、龍潭寺の南渓和尚の計らいで、次郎法師は井伊直虎と名乗り、虎松の後見人(養母)として女領主になります。
直虎を名乗るようになったのは女領主になってからです。これには南渓和尚と直虎の戦略や覚悟が見られます。というのも、男性の名を名乗ることで戦国時代を生き抜こうとしたのです。
龍潭寺の御霊屋には井伊家の歴代当主の位牌が収められており、直虎もその中に含まれます。
ただし、正式な当主ではなく、井伊家の中では24代の直政の後見人(養母)という位置づけです。
直虎は天正3年(1575年)に直政を当時の浜松城主、徳川家康に仕えさせます。直虎は天正10年(1582年)に亡くなりますが、直政はその後小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで活躍し、「徳川四天王」の筆頭として全国に名を馳せました。
井伊家はその後も徳川幕府の礎を築き、多くの大老を輩出し、日本の舵取り役として重要な役割を果たしました。特に幕末の日本を近代化へ導いた井伊直弼は広く知られています。
9:00~16:30(17:00 閉門)
毎年 8月15日、12月22日~27日
大人(高校生以上)500円
小人(小・中学生)200円
JR浜松駅よりタクシーで約40分
JR浜松駅 北口バスターミナル15番から奥山行き50分「神宮寺」下車徒歩10分
東名高速道路 三ヶ日IC 国道362号線、東へ約20分 または 浜松西IC 国道257号線を北へ30分
新東名高速道路 浜松いなさIC 国道257号を南へ10分