☰
✕

□ » 関西 » 奈良県 » 天理・法隆寺

額安寺

(かくあんじ)

聖徳太子ゆかりの伝承と古代の歴史を伝える寺院

額安寺は、奈良県大和郡山市額田部寺町に位置する真言律宗の寺院です。山号は「熊凝山(くまごりさん)」で、本尊には十一面観音をお祀りしています。寺名は「がくあんじ」ではなく、正式には「かくあんじ」と読みます。

大和郡山市の南端、大和川と佐保川の合流地点に近い場所にあり、古くは「額田寺(ぬかだでら)」とも呼ばれていました。古代の有力豪族である額田部氏の氏寺として栄えたとされ、長い歴史の中で衰退と再興を繰り返しながら、貴重な文化財を今日に伝えています。

額安寺の歴史と聖徳太子との関係

額田部氏の氏寺としての始まり

額安寺は、大和国平群郡額田郷を拠点としていた有力豪族・額田部氏にゆかりのある寺院です。古くは額田寺と呼ばれ、周辺地域の歴史や仏教文化を考えるうえで重要な存在でした。

奈良時代の寺院の様子を伝える資料や、境内から出土した瓦などから、額安寺には古くから寺院建築が存在していたことがうかがえます。

熊凝精舎と聖徳太子の伝承

『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』(天平19年・747年)によると、南都七大寺の一つである大安寺の前身は、推古天皇29年(621年)に聖徳太子が額田部の地に建立したとされる「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」であったと伝えられています。この精舎は、その後、移転や改称を経て、平城京の大安寺になったとされています。

かつては、この熊凝精舎が額安寺、または額田寺に当たるという説もありました。しかし、現在では、この説は史実として確定していません。

歴史学者の福山敏男氏は、熊凝精舎そのものの存在に疑問を示し、大安寺の創建を聖徳太子に結び付けるため、後世に作られた伝承である可能性を指摘しています。額安寺と聖徳太子の関係を理解する際には、伝承と歴史的事実を区別して考えることが大切です。

奈良時代の寺院の姿を伝える資料

国宝「額田寺伽藍並条里図」

「額田寺伽藍並条里図」は、奈良時代の寺院配置や周辺の寺領の様子を描いた貴重な資料です。かつて額安寺に伝わり、現在は国立歴史民俗博物館に所蔵されています。国宝に指定されており、古代寺院の研究において重要な役割を果たしています。

この絵図からは、当時の額田寺に南大門、中門、金堂、三重塔、講堂、僧坊などの建物が並んでいたことが分かります。寺院の建築配置だけでなく、周囲の土地利用や寺領の状況を知るうえでも貴重な手掛かりとなっています。

絵図に記された人名や内容などから、制作年代は天平宝字年間(757年~765年)と考えられています。この資料は、額田寺が奈良時代にはすでに存在していたことを示す重要な史料です。

出土瓦が示す古代の歴史

境内からは、7世紀第2四半期に属するとされる単弁六弁蓮華文の軒丸瓦などが出土しています。これらの瓦は、額安寺の創建当初の姿を考えるうえで重要な資料です。

また、境内の西側からは、法隆寺の創建伽藍から出土したものと同型の忍冬唐草文軒平瓦も見つかっています。ただし、確認されているのは1点のみであるため、両寺の直接的な関係については慎重な検討が必要とされています。

中世から近世にかけての変遷

衰退と鎌倉時代の再興

平安時代になると、額安寺は次第に衰退したとされています。しかし、鎌倉時代後期には、西大寺の高僧である叡尊(えいそん)や、その弟子の忍性(にんしょう)らによって再興されました。

その後、戦国時代の明応8年(1499年)には、細川政元の家臣・赤沢朝経による焼き討ちに遭い、寺院は再び荒廃しました。長い歴史の中で、額安寺は幾度もの困難を経験しています。

織田信長・豊臣秀吉の時代

天正8年(1580年)、織田信長による検地で寺領180石を没収されました。その後、豊臣秀吉の計らいによって寺領一町歩が与えられ、再建への道が開かれます。

この時期、額安寺の五重塔を四天王寺へ譲ることとなり、慶長5年(1600年)には、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼によって五重塔が四天王寺へ移築されました。

江戸時代以降の寺運

江戸時代には寺領12石が公認され、寺院の運営は安定していきました。戦乱や政策の影響を受けながらも、額安寺は再興を重ね、歴史を今に伝える寺院として存続してきました。

現在の境内と主な建造物

本堂

現在の本堂は、慶長11年(1606年)に再建された建物で、大和郡山市指定有形文化財となっています。長い歴史を持つ額安寺の信仰を伝える、境内の中心的な建造物です。

宝篋印塔

境内には、奈良県指定有形文化財の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。文応元年(1260年)に建立されたもので、銘文のある宝篋印塔としては、日本で3番目に古いものとされています。

鎌倉時代の石造美術や当時の信仰を知るうえで、貴重な文化財です。

忍性と善願上人の墓

忍性と善願上人の墓は、境内の外にある墓地に位置し、いずれも重要文化財に指定されています。額安寺の中世における歴史や、寺院の再興に関わった僧侶たちの足跡を伝える重要な遺構です。

このほか、境内には庫裏、納骨堂、山門などがあり、現在も寺院としての役割を担っています。

額安寺に伝わる文化財

重要文化財

額安寺には、仏教美術や信仰の歴史を伝える数多くの重要文化財が関係しています。主なものは次のとおりです。

五輪塔8基:忍性や善願上人の墓を含む石造物です。

黒漆六角厨子:仏像などを安置するための厨子で、漆工芸の歴史を伝えています。

黒漆小龕:「首懸駄都種子曼荼羅厨子」とも呼ばれる、信仰に関わる貴重な厨子です。

木造文殊菩薩騎獅像:獅子に乗る文殊菩薩を表した仏像です。

木心乾漆虚空蔵菩薩半跏像:奈良時代から平安時代初期にかけての仏教美術を伝える像です。

五輪塔納置品:忍性や善願上人に関係する骨蔵器などが含まれています。

国宝「額田寺伽藍並条里図」

額安寺ゆかりの国宝として特に重要なのが、前述の「額田寺伽藍並条里図」です。奈良時代の寺院建築や土地制度を知ることができる、歴史研究上きわめて貴重な資料です。

その他の貴重な資料

額安寺には、国宝や重要文化財のほかにも、寺院の歴史や仏教文化を伝える資料が関係しています。

絹本著色聖徳太子及び道慈律師像:室町時代の絵画で、聖徳太子と道慈律師を描いています。

額安寺大塔供養願文:鎌倉時代に関係する資料です。

大方広如来不思議境界経:平安時代の経典です。

蘇磨呼童子請問経 巻下:平安時代の仏教経典です。

額安寺文書:鎌倉時代から南北朝時代にかけての文書で、当時の寺院の歴史を知る手掛かりとなります。

金銅独鈷杵:鎌倉時代の密教法具です。

2019年に判明した四天王像の由来

2019年(令和元年)、奈良大学の調査によって、額安寺に伝来した木造四天王像2体から墨書銘文が発見されました。銘文には「行基大菩薩御作菅原寺」などの記載がありました。

この発見により、四天王像が、行基ゆかりの寺院である喜光寺(旧称・菅原寺)から移されたとする伝承を裏付ける手掛かりが得られました。古い仏像に残された文字が、寺院同士のつながりや文化財の伝来を解明する重要な資料となった事例です。

霊場としての額安寺

聖徳太子霊跡

額安寺は、聖徳太子霊跡第22番札所に指定されています。聖徳太子にゆかりのある寺院を巡る巡礼の一つとして、多くの参拝者に知られています。

札所の順番は、第21番が平隆寺、第22番が額安寺、第23番が大安寺です。

大和北部八十八ヶ所霊場

額安寺は、大和北部八十八ヶ所霊場の第87番札所でもあります。前後の札所は、第86番が与楽寺、第88番が久米寺です。

複数の霊場巡りに位置づけられていることからも、額安寺が地域の信仰や巡礼文化の中で重要な役割を果たしてきたことがうかがえます。

額安寺へのアクセス

電車をご利用の場合:近鉄橿原線「平端駅」から徒歩約20分です。

バスをご利用の場合:平端駅から安堵町コミュニティバスに乗車し、「額安寺口」停留所で下車、徒歩約5分です。

お車をご利用の場合:西名阪自動車道「大和まほろばスマートIC」から車で約3分です。

まとめ ― 古代から続く歴史と文化財を伝える名刹

額安寺は、古代の額田部氏にゆかりのある寺院として知られ、聖徳太子に関する伝承や、奈良時代の寺院の姿を伝える貴重な資料を有しています。中世には叡尊や忍性らによって再興され、戦乱や時代の変化を乗り越えながら、その歴史を受け継いできました。

国宝「額田寺伽藍並条里図」をはじめ、重要文化財の仏像や石造物など、額安寺に関係する文化財は、日本の仏教史や建築史、美術史を知るうえで大切な存在です。

古代寺院の歴史に関心のある方はもちろん、仏教美術や文化財、奈良の歴史を深く知りたい方にもおすすめの寺院です。額安寺を訪れることで、幾多の時代を経て受け継がれてきた信仰と文化の歩みに思いを馳せることができます。

Information

名称
額安寺
(かくあんじ)
Kakuanji Temple
エリア
奈良県の観光地 天理・法隆寺の観光地
カテゴリ
寺 神社・仏閣・寺院・教会

Gallery

天理・法隆寺

奈良県

カテゴリ

エリア