古墳の特徴と構造
4世紀前半に築造された大型前方後円墳
行燈山古墳は、古墳時代前期の4世紀前半頃に築造されたと推定されています。墳丘は前方後円形で、前方部を北西方向に向けています。三段に築かれた墳丘は、全長約242メートルという壮大な規模を持ちます。
柳本古墳群の中では、墳丘長約300メートルの渋谷向山古墳に次ぐ規模とされ、古墳時代初期の有力者の権力や地域社会の発展を考えるうえで重要な存在です。
墳丘の規模と周濠
行燈山古墳の主な寸法は、次のとおりです。
墳丘長:約242メートル
後円部の直径:約158メートル
後円部の高さ:約31メートル
前方部の幅:約100メートル
前方部の高さ:約13.6メートル
墳丘の周囲には、盾形の周濠が巡らされています。周濠を含めた全体の長さは約360メートルに達し、墳丘の壮大さをいっそう際立たせています。周濠には3か所の渡堤が設けられており、墳丘と周辺空間が一体となった構造を形成しています。
なお、周濠の一部は江戸時代末期に農業用の溜池として拡張されたとされ、現在の景観には後世の土地利用の歴史も反映されています。
出土品が伝える古代の文化
江戸時代の修陵事業で見つかった銅板
行燈山古墳に関係する遺物の中でも、特に注目されるのが、江戸時代の修陵事業中に出土したと伝えられる銅板です。
この銅板は、長辺約70センチ、短辺約53.8センチの長方形で、内行花文鏡に似た文様や、田の字形の文様が刻まれていたとされています。現在、銅板そのものの所在は分かっていませんが、拓本が残されており、当時の出土状況を考えるための資料となっています。
円筒埴輪や土器類
宮内庁書陵部による調査では、円筒埴輪や土師器、須恵器などが確認されています。これらは古墳時代の歴史や生活文化を知るうえで貴重な考古資料です。
埴輪は墳丘の周囲などに配置され、古墳の外観を整えるとともに、葬送儀礼や被葬者の権威を表す役割を担っていたと考えられています。出土品の特徴は、行燈山古墳の築造時期や当時の文化を検討するための重要な手掛かりとなっています。
初期ヤマト王権との関わり
大王墓の一つと考えられる古墳
行燈山古墳は、箸墓古墳や渋谷向山古墳などとともに、古墳時代初期の有力者やヤマト王権の成立過程を考えるうえで重要な遺跡です。
全長約242メートルという大規模な墳丘や、周濠を含む計画的な構造からは、多くの人々を動員できる強い権力と、高度な土木技術が存在したことがうかがえます。
ただし、古墳の規模や出土品だけで被葬者を特定することはできません。行燈山古墳が誰の墓であるかについては、文献史料と考古学的な調査成果を照らし合わせながら考える必要があります。
崇神天皇陵とされるまでの歴史
江戸時代から続く陵墓の比定
行燈山古墳は、長い歴史の中で、陵墓としての位置づけが変化してきました。江戸時代後期には、蒲生君平が著した『山陵志』で景行天皇陵に比定されています。
その後、1855年(安政2年)には景行天皇陵とされましたが、1865年(慶応元年)に崇神天皇陵へと変更されました。明治時代には宮内省による管理が始まり、現在は宮内庁が陵墓として管理しています。
近現代の調査
1974年から1975年にかけて、宮内庁書陵部による調査が実施されました。また、2017年と2020年には、考古学・歴史学関係の複数の学会による立ち入り調査が行われています。
陵墓として管理されている古墳では、調査できる範囲に制約があります。そのため、墳丘の内部構造や被葬者については、なお解明されていない部分が残されています。こうした調査の積み重ねが、古代史への理解を深めるうえで重要な役割を果たしています。
周辺に残る陪塚
主墳を取り巻く古墳群
行燈山古墳の周辺には、主墳に付随する陪塚(ばいちょう)と呼ばれる古墳が確認されています。陪塚は、大型古墳の近くに築かれた古墳で、主墳との関係や埋葬・祭祀のあり方を考えるための重要な手掛かりです。
行燈山古墳には、計4基の陪塚があるとされています。その一つが、拝所の北側に位置するアンド山古墳です。墳丘長約120メートルの前方後円墳で、主墳の周辺に築かれた古墳として注目されています。
このほか、少し離れた場所には「い号」「ろ号」「は号」と呼ばれる古墳も確認されています。主墳と周辺の古墳をあわせて見ることで、当時の埋葬施設の配置や地域の権力構造について、より広い視点から考えることができます。
長岳寺に伝わる弥勒石棺仏との関係
行燈山古墳の周辺にある長岳寺には、「弥勒石棺仏」と呼ばれる石造物が伝わっています。この石棺仏については、行燈山古墳の石室天井石を転用したものではないかという説があります。
ただし、古墳の石材が転用されたという見方は、確定した事実ではありません。古墳の石材が後世にどのように利用されたのかを考えるうえで、興味深い伝承の一つです。
崇神天皇との関係と文献史料
記紀に伝わる歴史
『古事記』や『日本書紀』には、崇神天皇に関する記述が残されています。こうした文献上の伝承を背景に、行燈山古墳は古くから崇神天皇の陵墓と考えられてきました。
また、平安時代に編纂された法典『延喜式』には、「山辺道上陵」という陵墓名が記されています。陵墓の管理に関する制度も記録されており、古代から中世にかけて陵墓がどのように認識され、管理されてきたかを知る手掛かりとなります。
一方で、文献に記された天皇と現存する古墳との対応関係については、慎重な検討が必要です。行燈山古墳は、伝承と考古学的な成果の両面から、古代国家の形成を考えるための重要な史跡といえます。
古代の歴史を今に伝える行燈山古墳
行燈山古墳は、全長約242メートルの壮大な墳丘と、周濠を備えた特徴的な構造によって、古墳時代前期の高い築造技術を今に伝えています。崇神天皇陵に治定されていることに加え、出土品や周辺の陪塚、長岳寺に伝わる石棺仏との関係など、さまざまな歴史的な見どころがあります。
被葬者については未解明の部分もありますが、それもまた、行燈山古墳が古代史研究において重要な存在である理由の一つです。天理市を訪れた際には、柳本古墳群を代表するこの古墳に目を向け、古代ヤマト王権の成立と発展に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。