広島平和記念公園は、第二次世界大戦末期に広島に投下された原子爆弾の犠牲者を追悼し、世界恒久平和を祈念する場として整備された市民公園です。広島市の中区中島町に位置し、その広大な敷地には多くの歴史的な記念碑や建造物が点在しています。
1945年8月6日、アメリカ軍が広島市に原子爆弾を投下しました。この未曾有の惨事を受け、翌年の1946年11月1日、爆心地に近い中島町内の10.72ヘクタールが「中島公園」として都市計画公園に指定されました。そして1949年11月1日には、広島市が「広島平和記念都市建設法」を制定し、広島が世界平和の象徴として再建されることを目的とする都市計画が開始されました。
1949年、広島市は「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」を実施し、約140件の応募案が集まりました。その中から、丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳國らの案が選ばれました。彼らのデザインは、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で結ぶ構成が評価され、現在の平和記念公園の基本設計が確立されました。
平和記念公園には、丹下健三による設計の広島平和記念資料館や原爆死没者慰霊碑、そして原爆ドームが配置され、これらを結ぶ南北軸が公園の中心をなしています。元々は、広島市中央公園や基町中層アパート群、市営基町高層アパートの周辺も平和公園に含める計画がありましたが、これは実現しませんでした。
丹下の公園計画には批判もありました。特に、戦前における「大東亜建設記念造営計画コンペ」に関わった経緯から、彼の転向が指摘されました。しかし、広島平和記念公園は、戦後の日本が世界に向けて示す新たな平和の象徴として、多くの人々に評価されています。
「広島平和都市建設構想案」は、『国際建築』1950年10月号に英文併記で掲載され、海外でも注目を集めました。丹下健三はこれをきっかけに、1951年に開催された近代建築国際会議 (CIAM) で広島平和記念公園の設計を発表し、国際的な建築家との交流が始まりました。
平和記念公園の北端に位置する原爆ドームは、世界遺産に登録されており、原爆投下時の被害を後世に伝える象徴的な建物です。戦争の悲惨さを後世に伝えるため、保存が続けられています。
平和記念公園内にある広島平和記念資料館は、国の重要文化財に指定されており、被爆の実態やその影響、平和の大切さを伝える展示が行われています。
平和記念公園の中心には、原爆で命を落とした方々を追悼するための原爆死没者慰霊碑が建っています。碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文が刻まれており、毎年8月6日にはここで平和記念式典が開催されます。
平和記念公園内には、広島国際会議場や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館も位置しています。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆者の遺影や遺品が展示されており、訪れる人々に深い感動と教訓を与えています。
毎年8月6日、広島平和記念公園では平和記念式典が行われます。この式典は、原爆が投下された時刻である午前8時15分に黙祷を捧げ、世界中から集まった人々が平和への誓いを新たにする場です。式典では、市内の中学校・高校の吹奏楽部が「ひろしま平和の歌」を伴奏し、合唱団による合唱が行われます。
現在の平和記念公園が位置する中島地区は、被爆前は市内でも有数の繁華街でした。江戸時代から昭和初期にかけて、多くの商人や住民がこの地に暮らし、活気に溢れていました。その歴史を引き継ぎつつ、今では平和の象徴としての役割を担う公園として、多くの人々に親しまれています。
平和記念公園内およびその周辺には、50を超える原爆関係の記念碑や記念建造物が点在しています。それらの多くは、原爆犠牲者の慰霊碑や平和を願う記念碑であり、地元住民や学校、団体などによって建立されました。
広島駅から路面電車で15分 *「原爆ドーム前」電停下車、すぐ
広島駅からバスで15分 *「平和記念公園」バス停下車、すぐ