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原爆ドーム

(げんばくドーム)

チェコ人の建築家、ヤン・レツル氏の設計で1915年(大正4年)に開館。かつて市の中心街にあった「広島県産業奨励館」跡。

昭和20年8月6日の原爆の実状を伝えるため永久保存されている。
1996年(平成8年)にユネスコの世界遺産として登録された。

原爆ドームの歴史

原爆ドームはチェコ人建築家ヤン・レツル氏の設計で1915年(大正4年)に開館した建物です。かつて市の中心街にあった「広島県産業奨励館」の跡地に立ち、昭和20年8月6日の原爆の実状を伝えるために永久保存されています。1996年(平成8年)にはユネスコの世界遺産に登録されました。

広島県産業奨励館

原爆ドーム(英: Atomic Bomb Dome)は、1945年(昭和20年)8月6日8時15分に広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物です。広島平和記念碑とも呼ばれています。この建物は、もともと広島県のさまざまな物産を展示するための広島県物産陳列館として開館されました。戦時中から原爆投下時までは広島県産業奨励館と呼ばれていました。

ユネスコの世界遺産(文化遺産)(ID775)に登録されており、平和を訴える記念碑として、特に負の世界遺産とされています。

建設の経緯

広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展しました。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となり、その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」です。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、1915年(大正4年)に竣工しました。

設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェルが担当し、工事は椋田組が請け負いました。ドームの先端までの高さは約25メートルあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物でした。

原爆投下までの沿革

1919年(大正8年)には物産陳列館で「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」が開催され、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われました。この展示会は、第一次世界大戦中に日本軍の捕虜となったドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムによって行われました。

1921年(大正10年)に広島県立商品陳列所と改称され、1933年(昭和8年)には広島県産業奨励館に改称されました。1944年(昭和19年)には奨励館業務を停止し、行政機関や統制組合の事務所として使用されました。

被爆以後の歴史

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を目標として原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点で炸裂しました。

爆風や熱線により建物は大部分が破壊されましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。これにより、ドームは被爆建造物として残ることとなりました。

「原爆ドーム」としての再出発

広島の復興が進む中で、産業奨励館廃墟は「原爆ドーム」として知られるようになりました。1951年(昭和26年)ごろには市民からこの名称で呼ばれるようになり、広島平和記念公園の構想が本格化しました。

1966年(昭和41年)には広島市議会が原爆ドームの永久保存を決議し、翌年には保存工事が完成しました。1995年(平成7年)には国の史跡に指定され、1996年12月5日にはユネスコの世界遺産に登録されました。

世界遺産への登録

1992年(平成4年)に日本国政府が世界遺産条約を受諾したことを契機に、広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択しました。署名運動が行われ、165万人分の署名が集まりました。

1995年に原爆ドームは国の史跡に指定され、翌1996年12月にユネスコの世界遺産に登録されました。この登録には多くの困難がありましたが、最終的には平和のシンボルとして世界に認められることとなりました。

Information

名称
原爆ドーム
(げんばくドーム)
Atomic Bomb Dome
住所
広島県広島市中区大手町
アクセス

広島駅から路面電車で15分

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