矢立温泉は、秋田県大館市の北端、青森県との県境に位置する矢立峠のふもとに湧く温泉です。古くから旅人や湯治客に親しまれてきた歴史ある温泉地であり、豊かな自然と良質な温泉に恵まれた地域として知られています。
現在では「矢立温泉郷」として、温泉宿泊施設や日帰り入浴施設が点在し、四季折々の自然を楽しみながら温泉を満喫できる観光地となっています。周辺には世界自然遺産・白神山地の玄関口ともいえる美しい森林地帯が広がり、秋田杉の森や矢立峠の歴史とともに温泉文化を感じることができます。
矢立温泉の歴史は明治時代にまでさかのぼります。1892年(明治25年)、現在の日景温泉よりも1年早く開業した温泉宿が始まりとされ、古くから湯治場として多くの人々に利用されてきました。
大正時代から昭和初期にかけては、奥羽本線陣場駅から乗合馬車が運行され、県内外から多くの湯治客が訪れていました。当時は旅館部や湯治客向けの客舎のほか、売店も設けられ、「赤湯せんべい」や「矢立タンサン水」、「矢立鉱泉サイダー」などが販売されるなど、大変な賑わいを見せていました。
温泉地として長い歴史を持つ矢立温泉は、時代の変化とともに姿を変えながらも、多くの人々に愛され続けてきました。
矢立温泉の最大の特徴は、その独特な泉質にあります。泉質は含塩化物鉄泉で、鉄分を豊富に含んでいるため、お湯が赤褐色に染まることから「赤湯」の愛称で親しまれていました。
源泉温度は約30度と比較的低いため、加温しながら利用されていましたが、浴槽には常に新鮮な温泉が注がれ、掛け流しの湯を楽しむことができました。
浴室内では温泉成分が床や浴槽の周辺に析出し、まるで棚田のような美しい模様を形成していたことでも知られています。これは長い年月をかけて温泉成分が積み重なってできたもので、温泉の豊富な成分を物語る貴重な景観でした。
現在の矢立温泉郷を代表する施設の一つが矢立ハイツです。青森県境近くの国道7号沿いに位置し、宿泊と日帰り入浴の両方が楽しめる温泉施設として親しまれています。
もともとは勤労者福祉施設として整備されましたが、現在では観光客や地元住民にも広く利用されています。平成19年には新たな源泉の供給が開始され、源泉掛け流しの温泉を楽しめるようになりました。
矢立ハイツの温泉は、環境省の基準を満たした療養泉として認定されています。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉で、切り傷や火傷、慢性皮膚病をはじめ、神経痛や筋肉痛、関節痛、冷え性など幅広い症状への効能が期待されています。
露天風呂からは豊かな自然を眺めることができ、秋田杉の森に囲まれながらゆったりとした時間を過ごせます。
矢立温泉郷を語るうえで欠かせない存在が、矢立峠近くにある日景温泉です。世界自然遺産・白神山地の北東入口に位置し、「東北の草津」と称される白濁した硫黄泉で知られています。
明治26年(1893年)の開湯以来、「皮膚に効く薬湯」として高い評価を受けており、「三日一廻りの霊泉」とも呼ばれてきました。全国から温泉ファンが訪れる秘湯として人気を集めています。
天然秋田杉の森に囲まれた一軒宿は、静寂に包まれた特別な空間です。テレビを設置しない客室や、無料で利用できる貸切風呂、岩盤浴なども備えられ、自然と温泉を存分に堪能できる滞在型の温泉宿となっています。
矢立温泉郷の魅力は温泉だけではありません。周辺には天然秋田杉の森や白神山地へと続く豊かな自然が広がり、季節ごとに異なる表情を見せてくれます。
春には新緑が芽吹き、夏は深い緑に包まれた涼やかな森が広がります。秋には山々が赤や黄色に染まり、冬には雪景色が幻想的な世界を演出します。
温泉に浸かりながら四季の移ろいを感じられることも、矢立温泉郷ならではの大きな魅力です。
矢立峠は古くから秋田と津軽を結ぶ交通の要衝として栄えてきました。江戸時代には参勤交代や物資輸送の重要なルートとして利用され、多くの旅人がこの地を行き交いました。
温泉地周辺には、そうした歴史を今に伝える史跡や旧街道の面影も残されており、歴史散策を楽しむこともできます。
矢立温泉郷は、歴史ある温泉文化と豊かな自然が調和した魅力あふれる観光地です。かつて「赤湯」と呼ばれた矢立温泉の歴史を感じながら、療養泉として親しまれる矢立ハイツや、「東北の草津」と称される日景温泉を巡ることで、それぞれ異なる温泉の魅力を体験することができます。
秋田県最北端の温泉郷として、豊かな自然と歴史、そして名湯に恵まれた矢立温泉郷は、心と体をゆっくりと癒やしたい方におすすめの温泉地です。