金色堂:国宝の至宝
中尊寺を代表する建造物である金色堂は、12世紀に藤原清衡によって建立された阿弥陀堂です。建物内外を総金箔張りで覆い、白く光る夜光貝の細工、透かし彫りの金具・漆の蒔絵など、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた荘厳な空間が広がります。金色堂は国宝に指定されており、日本の仏教建築の中でも特に重要な建造物の一つとされています。
中尊寺境内:歴史と文化が息づく空間
中尊寺境内には、金色堂以外にも多くの文化財があります。経蔵、白山神社能舞台、讃衡蔵などは重要文化財に指定されており、それぞれが歴史と文化を感じさせる貴重な建造物です。また、境内には藤原清衡や奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡の遺骨が納められた墓所もあります。
主な伽藍
本堂: 1909年の建築。2013年に新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われました。
金色堂(国宝): 藤原清衡が建立した阿弥陀堂。建物の内外を総金箔張りとし、現在は鉄筋コンクリート造の覆堂内にあります。
金色堂旧覆堂(重要文化財): 金色堂を風雨から守ってきた堂。現在の位置に移築されています。
経蔵(重要文化財): 金色堂の近くにあり、国宝の一切経を納めていた建物。
白山神社能舞台(重要文化財): 中尊寺の鎮守・白山神社内に建つ能舞台。近世の能舞台遺構として東日本唯一のものです。
讃衡蔵(さんこうぞう): 中尊寺ほか山内寺院の文化財を収蔵・展示する施設。
歴史
中尊寺の創建に関しては寺伝によると、嘉祥3年(850年)に円仁が関山弘台寿院を開創し、その後、貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったとされていますが、確かな史料には裏付けられていません。実際には、12世紀初頭に奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが中尊寺の始まりと見られています。
中世以降
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅亡した後も、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺として源頼朝の庇護を受けて存続しました。当時の中尊寺には金色堂のほか、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがありました。しかし、建武4年(1337年)の大火災で金色堂を除く堂宇がほぼ全焼してしまいました。
江戸時代
江戸時代には仙台藩の領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修や建立が行われました。承応3年(1654年)からは仙台・仙岳院が別当寺となり、寛文5年(1665年)には江戸・寛永寺の末寺となりました。しかし、元禄2年(1689年)に『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを嘆いたのは有名です。
近代以降
1909年(明治42年)に本堂が再建されました。1950年(昭和25年)には、金色堂須弥壇に800年もの間安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施され、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明しました。
1958年(昭和33年)には天台宗東北大本山の称号を許され、天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持されました。1962年(昭和37年)より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年(昭和43年)に創建当時の輝きを取り戻しました。
現在では、泰衡の首級桶から発見された種子が発芽し、1998年(平成10年)に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられています。花弁が現在のものより少し細く、薄いのが特徴です。