名の通り鋸と歯のように尾根が続き、頂上からの眺望はすばらしく、百尺観音、石仏、千五百羅漢が有名です。標高は329.5メートルです。
鋸山(のこぎりやま)は、千葉県安房郡鋸南町と富津市との境に位置する標高329.5メートルの山です。索道として鋸山ロープウェーが通り、日本寺や地獄のぞきなどが観光地化されています。
鋸山の正式な名称は乾坤山(けんこんざん)で、乾坤は天地の意を表します。この名称は日本寺の山号となっています。鋸山は日本名山図会の日本80名山、日本百低山に選定されています。
地獄のぞきは、山頂展望台の通称です。頂上付近にあり、石切場跡の絶壁の上に下方前傾に突き出した岩盤上から約100メートル下を望むことができます。スリルを味わいながら東京湾や房総丘陵、富士山などを見渡すことができます。
眺望は素晴らしく、東京湾一帯から伊豆大島まで見渡すことができます。また、近隣の安房三名山の富山、御殿山、伊予ヶ岳を臨むこともできます。
鋸山は凝灰岩から成り、建築などの石材として適しています。そのため、古くは房州石と呼ばれ、良質石材の産地として江戸時代から盛んに採石が行われていました。石切場跡が現存しており、露出した山肌の岩が鋸の歯状に見えることからこの名で呼ばれるようになりました。
1862年9月8日(文久二年八月十五日)、外交官アーネスト・サトウは、イギリス駐日公使館の通訳生として赴任するため横浜へ向かう途中、江戸湾(東京湾)洋上の汽船ランスフィールド号から、右手に鋸の歯のような恰好をした鋸山を眺望した旨を著書に記しています。
採取された石材は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用されました。また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されています。自然保護規制の強化により1985年(昭和60年)を最後に採石が終了しました。石切場や石材搬出路の跡は産業遺産として観光資源になっています。
江戸期には谷文晁が『日本名山図会』において日本80の名山のうちに数えましたが、深田久弥が改めて日本百名山を選んだときには選に漏れ、現在では小林泰彦選の日本百低山に入っています。
鋸山は房総丘陵の一部分を占め、内陸部よりも海岸線(東京湾)に近い位置にあります。
山頂までは、鋸山ロープウェーや鋸山登山自動車道を利用することができます。ハイキングでは、浜金谷駅(JR内房線)から鋸山頂上、百尺観音、地獄のぞき、日本寺大仏、日本寺を通って保田駅(JR内房線)へ下るコースがあります。周辺は、地質や動植物の研究者から天然の大博物館として学術的にも注目されています。
鋸山が国道127号の上から東京湾へ落ち込むところは明鐘岬(みょうがねみさき)と呼ばれ、磯遊び、夕日観賞の観光ポイントとなっています。
鋸山には多くの文人が訪れ、多くの詩歌が残されています。境内には小林一茶や長谷川馬光などの句碑も建立されています。近代文学では夏目漱石が『木屑録』に日本寺を訪れた際の様子を記しています。夏目漱石と交流のあった正岡子規は後日、夏目漱石とは逆ルートで鋸山を訪れ、この旅を『かくれみの』で著しています。
1852年(嘉永5年)頃に刊行された浮世絵師・歌川広重の連作『不二三十六景』では「安房鋸山」が描かれています(安房は現在の千葉県南部の旧国名)。「安房鋸山」は手前に鋸山、奥に浦賀水道越しの富士山を描いた図で、広重は嘉永5年2月に房総半島を旅行して鋸山を訪れ、『房総行日記』を記しています。
地獄のぞきのほか、鋸山全体が境内である日本寺があります。参拝の際には文化財の維持・管理および境内の環境整備・復興のため拝観料が必要です。
日本寺には、日本寺大仏、百尺観音、千五百羅漢などがあります。
鋸山ロープウェーや自動車を利用してアクセスすることができます。最寄り駅はJR内房線の保田駅または浜金谷駅です。自動車の場合、国道127号や富津館山道路の富津金谷インターチェンジ・鋸南保田インターチェンジからアクセスできます。また、浜金谷港からは東京湾フェリーも利用できます。
鋸山はその自然の美しさと歴史的な背景、豊かな文化遺産により、多くの観光客や学術研究者に注目されています。
8:00~17:00
大人 700円
小人 400円(4~12歳)
東日本旅客鉄道内房線 保田駅から徒歩で20分