概要と立地
鹿島神宮は茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座しています。その歴史は古く、『常陸国風土記』にも登場し、東国随一の古社として知られています。主祭神である武甕槌神(タケミカヅチ)は、日本神話において大国主の国譲りにおいて重要な役割を果たした神であり、古代には朝廷から蝦夷の平定神として崇敬されていました。この神の威光は中世においても武家政権に引き継がれ、現在も武道の守護神として信仰されています。
社殿と文化財
鹿島神宮の境内には、朱塗りの壮麗な楼門や極彩色豊かな本殿など、多くの重要文化財が存在します。中でも、国宝に指定されている「韴霊剣 フツノミタマノツルギ」と呼ばれる直刀は、全長約3メートルもある大刀で、奈良・平安期に製作されたものとされています。境内自体が国の史跡に指定されており、鹿を神使とする伝統もあります。これらの文化財は、日本の歴史と文化を今に伝える貴重な遺産です。
境内の自然
鹿島神宮の境内には、県の天然記念物に指定されている広大な森が広がっています。この森は東京ドーム約15個分の広さを持ち、数多くの貴重な植物が群生しています。木漏れ日の中を散策しながら、自然の美しさを楽しむことができるこの場所は、森林浴にも最適なスポットとして知られています。
社名の由来と歴史
鹿島神宮が鎮座する地「カシマ」は、『常陸国風土記』では「香島」と記されていますが、8世紀初頭には「鹿島」に改称されたとされています。この名称の由来には諸説あり、例えば「神の住所」を意味する「カスミ」から来たとする説や、建借間命(たけかしまのみこと)から「カシマ」を取ったとする説があります。また、神使の鹿に由来するという説もあります。
祭神
鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する武神として知られています。天孫降臨に先立つ葦原中国平定において活躍したとされ、その勇猛さから武神・軍神としての性格を持っています。全国の武士や戦士たちから崇敬され続けてきました。
香取神宮との関係
鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮は、古来から「鹿島・香取」と並び称される存在です。両神宮はともに軍神としての信仰が厚く、朝廷からの崇敬も深いものでした。古代の関東東部には香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する重要な地に鎮座していました。この地勢的な重要性から、両神宮はヤマト政権による蝦夷進出の拠点とされ、その分霊は東北沿岸部各地で祀られるようになりました。
歴史と背景
鹿島神宮は茨城県鹿嶋市宮中に位置し、式内社(名神大社)、常陸国一宮としても知られています。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。また、全国にある鹿島神社の総本社として、多くの参拝者を迎えています。
朝廷からの崇敬
鹿島神宮と香取神宮は、古くから朝廷によって重要視されてきました。両神宮には、それぞれ常陸国鹿島郡と下総国香取郡が神郡として指定されており、これは全国でも非常に稀な例です。また、両神宮には毎年、朝廷から勅使が派遣されており、これは地方の神社としては異例のことでした。
創建と伝承
鹿島神宮の創建については、神武天皇元年に初めて宮柱を建てたと伝えられています。また、『常陸国風土記』には「香島の天の大神」が高天原より降臨したとの記述があり、これが鹿島神宮の由来とされています。
初期の歴史
第10代崇神天皇の時代には、鹿島神宮に対して武器や舟が献じられました。そして、第12代景行天皇の時代には、初めて神宮に対しての奉納が行われ、これが次第に定着していきました。このように、鹿島神宮は古代から朝廷の崇敬を受けてきました。
奈良時代には、鹿島神宮は藤原氏の氏神としても崇敬されました。768年には、奈良の御蓋山に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建され、鹿島から武甕槌神が勧請されました。このように、鹿島神宮は藤原氏との関係を通じて日本の政治・宗教の中で重要な役割を果たしてきました。
中世の発展
平安時代になると、鹿島神宮は武士たちの信仰を集めるようになりました。鎌倉時代には、源頼朝が鹿島神宮を深く崇敬し、神領の寄進や社殿の再建を行ったことが記録されています。これにより、鹿島神宮は武家政権との結びつきを強め、発展していきました。
室町時代には、関東地方の有力な武士たちが鹿島神宮を参詣し、武運を祈願するようになりました。これらの時代を通じて、鹿島神宮は武神信仰の中心地としての地位を確立していきました。
戦国時代の混乱
戦国時代には、鹿島神宮も戦乱の影響を受け、一部の社殿が焼失するなどの被害を受けました。しかし、地元の領主や信仰心の厚い武士たちによって再建され、神社としての機能を保ち続けました。
江戸時代の繁栄
江戸時代になると、徳川家康が鹿島神宮を篤く崇敬し、社領の安堵や新たな寄進を行いました。これにより、鹿島神宮は再び繁栄し、多くの参詣者が訪れるようになりました。江戸時代は、鹿島神宮の歴史において特に重要な時期となりました。
近代以降
明治時代には、神仏分離令の影響を受け、鹿島神宮も改革が行われました。戦後は神社本庁の別表神社として、現代まで続いています。今日でも、多くの参拝者や観光客が訪れる場所として、鹿島神宮はその歴史と伝統を守り続けています。
境内の広大さと自然
鹿島神宮が鎮座する地は「三笠山」と称され、日本の歴史上重要な遺跡として国の史跡に指定されています。境内の広さは約70ヘクタールに及び、そのうち約40ヘクタールは「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されています。この樹叢には約800種の植物が生育しており、多くの巨木が神宮の長い歴史を象徴しています。
樹叢の重要性
「鹿島神宮樹叢」は茨城県内でも随一の常緑照葉樹林として知られ、四季折々の自然を楽しむことができます。この場所は、訪れる人々に安らぎを提供し、自然との調和を感じさせる特別な空間です。
歴史的な社殿と建造物
鹿島神宮の社殿群は、江戸時代初期の元和5年(1619年)に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の命によって造営されたものです。これらの建造物は、幕府棟梁の鈴木長次によるもので、現在も国の重要文化財として保存されています。
主要な社殿
鹿島神宮の主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿から構成されています。本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺となっており、漆塗りで柱頭や組物に極彩色が施されています。かつて本殿として使用されていた社殿は現在の奥宮の社殿であり、こちらも国の重要文化財に指定されています。
楼門と大鳥居の歴史
境内に入るとまず目に入るのが、「日本三大楼門」の一つとされる朱漆塗りの楼門です。この楼門は、寛永11年(1634年)に初代水戸藩主・徳川頼房の命によって造営されました。棟梁は越前大工の坂上吉正で、構造は三間一戸、入母屋造の2階建てで、控え目な意匠が特徴です。
大鳥居の再建
鹿島神宮の入り口にある大鳥居は、4本の杉を用いて建てられており、その高さは10.2メートル、幅は14.6メートルに達します。元々は石造りの鳥居でしたが、2011年の東北地方太平洋沖地震で倒壊したため、杉の巨木を用いて再建されました。新たに建てられた大鳥居は、鹿島神宮のシンボルとして、多くの参拝者を迎えています。
要石と地震の神話
鹿島神宮には「要石」と呼ばれる霊石があります。この石は境内の東方に位置し、古来より地震を引き起こすとされる大鯰を抑える守り神として信仰されてきました。要石は見た目は小さな石ですが、その地中部分は非常に大きく、決して抜くことができないと伝えられています。
要石にまつわる伝説
要石に関しては、多くの伝説が残されています。例えば、水戸藩主・徳川光圀が石を掘り起こそうとした際、7日7晩掘っても根元に届かなかったという話や、神無月に起きた大地震が鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたとする伝承などがあります。
御手洗池と鹿園
鹿島神宮の境内には「御手洗池」という神池があり、ここで潔斎(禊)が行われていました。池の水は非常に澄んでおり、大人でも子供でもその水深は乳を越えないとされ、「鹿島七不思議」の一つに数えられています。
神使としての鹿
境内には「鹿園」があり、30数頭の日本鹿が神使として飼育されています。この鹿たちは、神宮の守り神として、また鹿島神宮の象徴として大切にされています。奈良の春日大社の鹿も、鹿島神宮から出発したと伝えられており、両神社は深い関係を持っています。
摂末社とその重要性
鹿島神宮の境内外には、摂社と末社が多数点在しており、それぞれが重要な役割を果たしています。摂社には奥宮や高房神社、三笠神社などがあり、これらの神社もまた、鹿島神宮の歴史と文化を支えてきた存在です。
奥宮の歴史
奥宮は、本宮の旧本殿として使用されていたもので、元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際に奥宮として移されました。こちらも国の重要文化財に指定されています。
境内の観光
鹿島神宮は、その壮大な歴史と文化財、そして自然の豊かさで訪れる人々を魅了します。鹿島神宮の入口、大鳥居横では観光ボランティア「鹿嶋ふるさとガイド」の受付があります。ボランティアガイドの説明を聞きながら境内を散策すれば、楽しく鹿嶋の歴史を知ることができます。神社の静寂な雰囲気の中で、歴史と自然が織りなす美しい調和を感じることができるでしょう。