建立の経緯
江戸時代後期の寛政の頃、金鳳山正法寺の第11代惟中和尚は、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、亡くなった人々の菩提を弔うために大釈迦如来像の建立を決意しました。
1791年(寛政3年)頃から、大仏に使用する経本を集め始めましたが、なかなか集まらず、各地を托鉢してひたすら集めました。1800年には堂が完成し、大仏の頭部のみが完成していました。
1815年(文化12年)、惟中は志半ばで亡くなり、しばらく中断しましたが、第12代肯宗和尚がその後を継ぎ、引き継いで13年後の1832年(天保3年)4月に大釈迦如来像が完成しました。建立に38年かかったことになります。
日本最大級の乾漆仏
岐阜大仏は、周囲6尺(約1.8m:直径約57cm)の大イチョウを芯柱として、その骨格は木材で組まれ、外部は良質の竹材と粘土で作られています。その上に経典が書かれた美濃和紙を糊で張り付け、漆を塗って金箔を貼り仕上げています。
経典は住職が読経しながら一枚一枚貼られました。この工法から「籠大仏」とも呼ばれています。岐阜大仏に使用された経典は四万巻に上るとされています。
薬師如来像
胎内仏として薬師如来像が安置されています。この薬師如来像は、室町時代に美濃国厚見郡革手(現在の岐阜市正法寺町)の革手城の城下にあった、土岐氏の氏寺である霊正山正法寺(現在は廃寺)の本尊であり、平安時代の円仁(慈覚大師)作との伝承があります。