犬山城は、愛知県犬山市に位置する日本の歴史的な城郭で、尾張国と美濃国の境にあります。木曽川の南岸、標高約88メートルの丘に築かれた平山城で、「白帝城」の別名でも知られています。天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存12天守」の一つであり、天守が国宝指定された5城のうちの一つでもあります(他の4城は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。犬山城跡は国の史跡にも指定されており、日本で最後まで個人所有されていた城でもあります(2004年まで個人所有)。
犬山城は尾張国と美濃国の境に位置し、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城です。別名「白帝城」は、木曽川沿いの丘上にある城の佇まいが、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられています。岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城で、その後、池田恒興や織田勝長が入城し、豊臣政権の時代には石川貞清が改修し現在の形となりました。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となったこともありました。
犬山城の歴史は以下のように進んできました。
室町時代
1469年(文明元年):応仁の乱の最中に、岩倉織田氏当主の織田敏広の弟・織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりです。 1537年(天文6年):織田信秀の弟・織田信康が現在の位置に城郭を造営しました。
安土桃山時代
1582年(天正10年):本能寺の変後、尾張国を領有した織田信雄配下の中川定成が城主となりました。 1584年(天正12年):小牧・長久手の戦いで犬山城は西軍の重要拠点となりました。 1596年(文禄4年):石川貞清が城主となり、城の改築を行いました。
江戸時代
1601年(慶長6年):小笠原吉次が城主となりました。 1617年(元和3年):成瀬正成が城主となり、天守の大改修が行われました。以後、成瀬家9代の居城となりました。
明治時代
1871年(明治4年):廃藩置県により廃城となり、天守を除いて多くの建物が取り壊されました。 1891年(明治24年):濃尾地震により天守の一部が壊れました。 1895年(明治28年):愛知県から成瀬家へ無償譲渡されました。
昭和時代
1935年(昭和10年):犬山城天守が当時の国宝保存法に基づき旧国宝に指定されました。 1952年(昭和27年):犬山城天守が文化財保護法に基づき国宝に指定されました。 1959年(昭和34年):伊勢湾台風により大きな被害を受けました。
平成時代
2004年(平成16年):個人所有から法人所有へ移行し、財団法人犬山城白帝文庫に移管されました。 2006年(平成18年):日本100名城に選定されました。 2018年(平成30年):犬山城跡が国の史跡に指定されました。
犬山城の天守は、外観3重、内部は4階、地下に2階の踊場がある構造です。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属し、複合式の望楼型天守となっています。天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルあります。天守の高さは19メートルに達し、現存する天守の中でも特徴的な構造です。天守の最上階には絨毯が敷かれたことがあり、昭和の修理で再現されました。
犬山城天守は、1935年に旧国宝に指定され、1952年には新国宝に指定されました。文化財保護法に基づき、公益財団法人犬山城白帝文庫が所有し、犬山市が管理団体に指定されています。天守の各階の床面積は以下の通りです。
1階:282.752平方メートル
2階:246.006平方メートル
3階:81.936平方メートル
4階:49.835平方メートル
犬山城天守の創建については、1537年または1601年に建てられ、1620年頃に3、4階が増築されたとされています。2019年の年輪年代法による調査では、1585年からの3年間に伐採された建築材が使用されていることが判明しました。
犬山城は四季折々の風景と共に、多くの写真が撮影されています。城と桜並木、名鉄電車との共演、遊覧船からの眺めなど、犬山城の美しい風景を楽しむことができます。
犬山城の天守以外の遺構も多く残されており、城門や堀の跡などが確認されています。城の門は複数の寺院に移築され、山門として再利用されています。2021年の発掘調査では、外堀の幅や深さが17世紀の絵図とほぼ一致していることが分かりました。
9:00~17:00(16:30までに入城)
12月29日~12月31日
一般 550円
小中学生 110円
犬山遊園駅から徒歩で15分
犬山駅から徒歩で20分