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鳥海山 龍頭寺

(ちょうかいさん りゅうとうじ )

山岳修験道の歴史と文化を今に伝える寺院

龍頭寺は山形県飽海郡遊佐町蕨岡にある真言宗智山派の寺院で、かつては鳥海山の修験道の最大の拠点でした。この寺の開基については、慈照上人が開いたとする説と新義直公が開いたとする説があります。中世には、鳥海山を中心に真言密教を広める寺として栄え、江戸時代中期には江戸日暮里の浄光寺から法印深海和尚が来て、三宝院醍醐寺の直末としての地位を確立しました。これにより、龍頭寺は真言修験の道場として33の坊を統率する中心的な存在となりました。

名称の由来と仁王像

龍頭寺の名称は、鳥海山の山頂に参拝した人が下を見たところ、龍が昼寝をしてとぐろを巻いた姿に見え、この地がちょうど龍の頭の部分であったためとされています。また、仁王像はインド風の造りをしており、非常に珍しいものです。この仁王像の股をくぐると、はしかの快癒や無病息災にご利益があるといわれています。

おすすめポイント

龍頭寺境内は国史跡鳥海山に指定されており、本堂・開山堂・観音堂は国登録有形文化財となっています。また、鳥海山山頂の本地佛である薬師如来が本堂に安置されており、観音堂の本尊である身丈3.6メートルの十一面観音は平安前期の尊像です。さらに、付近には旧鳥海山修験蕨岡集落の宿坊街並も残っています。

歴史的背景と寺の由来

龍頭寺は遊佐町の東南端、国道345号から少し入った鳥海山麓に位置しています。鳥海山の山麓には多くの修験の根拠地があり、蕨岡の修験(衆徒)はその中でも最も大きな勢力を持っていました。寺伝によると、龍頭寺は大同2年(807年)に慈照上人が開基したとされていますが、史料は残っておらず伝承に留まります。また、『羽黒山年代記』には、貞観2年(860年)に慈覚大師円仁が青鬼赤鬼を退治し、龍の形に似た山の頭に当たる部分に権現堂を建てて寺号を龍頭寺としたと伝えられています。

近世の発展と修験道場としての役割

蕨岡の坊名の記録上の初出は、慶長16年(1611年)の『鳥海山御神領検地帳』で、三十三坊の名称と持分が記録されています。また、慶長17年(1612年)付の最上義光による蕨岡への『鳥海山神寄進状』が残っており、政治権力とも深く絡んでいたことがわかります。近世初期には羽黒修験との関係を維持しており、その関係を示すものとして、明暦元年(1655年)に吹浦との争論に際して蕨岡観音寺から吹浦神宮寺へ出された『取替手形之事』があります。この文書には、蕨岡が元は羽黒派であったが、真言宗に留まっていたことが記されています。

寺名の変遷と三宝院との関係

寛永7年(1630年)の『吉出組大組頭佐々木惣四郎村々改書』には「真言宗 蕨岡鳥海派 御役下明学院」と記されており、蕨岡の寺名が「松岳山観音寺」から「龍頭寺」に変わったことがわかります。貞享元年(1684年)に江戸の醍醐三宝院名代の品川寺中性院と取り交わした文書には、龍頭寺が三宝院の配下にあり、直末の当山派修験として順峯修行をしていたことが記されています。また、享和2年(1802年)には当山派修験の惣袈裟頭であった江戸鳳閣寺が寺社奉行に出した『御条目』に、蕨岡龍頭寺が一山の中で昇進できるとあり、蕨岡の大きな勢力を示しています。

神仏分離と現在の状況

蕨岡は慶応4年(1868年)の神仏判然令や明治初期の神仏分離に関わる政令、明治5年(1872年)の修験道廃止令を受け、明治25年(1892年)から新義真言宗智山派となった龍頭寺を除いて衆徒は神道に改宗しました。しかし、神道化に関しては吹浦に遅れをとり、騒動と調停の後に、共に鳥海山大物忌神社の「口ノ宮」になりましたが、交通路の変化もあって衰退しました。現在でも、蕨岡口之宮には豪壮な拝殿が残り、往時の修験の面影を止めています。

豊富な伝承と文化遺産

鳥海山の山麓には多くの龍に関する伝承が残っており、特に水に関する地名や伝承が多く見られます。龍頭寺は、鳥海山の山頂から庄内側を見下ろすと山全体が龍のわだかまる形をなし、その頭に当たる蕨岡山麓の上寺(うわでら)に建てられたと伝えられています。毎年5月3日に行われる「大御幣祭り」では、大堂前での御幣立てや、青少年の舞楽の奉納が行われ、これらは「蕨岡延年」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

Information

名称
鳥海山 龍頭寺
(ちょうかいさん りゅうとうじ )
Chokaisan Ryutoji Temple
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