高知城は、高知県高知市に位置する日本の歴史的な城で、その瓦や壁の色が鷹の羽に似ていることから、「鷹城(たかじょう)」とも呼ばれています。城内には、土佐藩を代表する歴史的な人物、板垣退助の銅像が立っており、その姿は訪れる人々に深い印象を与えます。
高知城の前身として知られる大高坂山城(または大高坂城)は、南北朝時代に大高坂氏が築いたとされますが、詳細な記録は残っていません。大高坂松王丸が居城し、南朝方に属していたことが知られていますが、興国2年(1341年)に北朝方との戦いで敗れた際、大高坂山城は落城し、その後廃城になったと考えられています。
天正15年(1587年)、戦国大名の長宗我部元親は、大高坂山に再び城を築きました。しかし、天正19年(1591年)、この城は水はけの悪さが問題視され、元親は桂浜に近い浦戸城に拠点を移しました。この浦戸城は、朝鮮出兵に対応するための一時的な城であり、大高坂山城も整備が続けられていた可能性があります。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した長宗我部盛親が改易されると、山内一豊が掛川城から土佐に入りました。一豊は浦戸の地が狭いため、大高坂山に新たに城を築くことを決断しました。築城には、優れた石垣技術を持つ百々綱家を総奉行に任命し、多くの人員を動員して工事が進められました。
慶長8年(1603年)、本丸が完成し、この新城は「河中山城(こうちやまじょう)」と名付けられました。後に「高智山城」に改名され、さらに「高知城」として知られるようになりました。慶長16年(1611年)には三ノ丸が完成し、高知城の全体的な構造が整いました。
しかし、享保12年(1727年)の大火で城は追手門以外ほとんどが焼失し、享保14年(1729年)から再建が始まりました。寛延2年(1749年)には天守などが再建され、現在の高知城の姿が完成しました。
明治6年(1873年)の廃城令に伴い、高知城は高知公園として転用され、多くの建造物が破却されました。しかし、昭和9年(1934年)には天守などの15棟が国宝に指定され、その後の昭和20年(1945年)の高知大空襲で一部が被害を受けましたが、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されました。また、昭和34年(1959年)には国の史跡に指定され、平成18年(2006年)には日本100名城にも選ばれました。令和2年(2020年)には天守高欄の改修工事が行われています。
高知城の天守は、南北に千鳥破風、東西に唐破風を備えた安土桃山時代の様式を持ちます。現在の天守は延享4年(1747年)の焼失前のものを忠実に復元したものであり、古風な形式を保っています。この天守は独立式望楼型で4重6階構造となっており、1重目の屋根を腰庇として数えられることもあります。
天守の平面寸法は、初層と2層が8間×6間、3層と4層が4間四方、5層と最上層が3間四方で、その高さは18.5メートルです。この天守は国の重要文化財に指定されており、訪れる人々にその壮麗さを誇ります。
本丸御殿は、天守に隣接しており、土佐藩の初代藩主である山内一豊とその正室、千代夫人が住んでいました。18世紀初頭に焼失しましたが、江戸中期に再建され、現在でもその姿を保っています。現存する本丸御殿は高知城のみで、上段ノ間、二ノ間、三ノ間などの複数の間取りで構成されています。
この本丸御殿は「懐徳館」と呼ばれ、納戸蔵とともに国の重要文化財に指定されています。納戸蔵は八畳三室、四畳および縁側から成り、一重、入母屋造、本瓦葺の建築様式です。
追手門は江戸時代から現存する門であり、入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれ、敵を三方から攻撃できる構造になっています。この防御的な設計は、当時の城郭の戦略的重要性を物語っています。
鉄門跡にはかつて二階建ての門があり、その扉には鉄板が打ち付けられていました。門を通過すると枡形になっており、詰門へと続く構造となっています。詰門は、本丸とその北側に位置する二ノ丸を結ぶ櫓門で、二階部分は廊下橋として機能していました。このような建築様式は、敵の侵入を防ぐための高度な戦略が反映されています。
二ノ丸には藩主の居住空間である二ノ丸御殿があり、発掘調査で発見された長宗我部時代の石垣が、現在でもその遺構として残っています。また、鐘撞堂の鐘は享保4年(1719年)に鋳造されたもので、戦後に現在の場所に移築されました。鐘撞堂は入母屋造りで、桟格子破風の貴重な遺構として評価されています。さらに、三の丸には豪華な障壁画で装飾された三の丸御殿がかつて存在していました。
高知城には以下の15棟が国の重要文化財に指定されています。
高知城跡は1959年(昭和34年)6月18日に国の史跡に指定されました。高知城は、その歴史的な価値が非常に高く、多くの観光客が訪れる名所として広く知られています。