丸亀城は、標高66メートルの亀山を利用し、亀山の周りを内堀で囲む平山城で、現存12天守の一つです。白鳥が遊ぶ内堀から山頂まで4重に積み重ねられた石垣は、高さ60メートルを超え、日本一とされています。この石垣は「扇の勾配」と呼ばれ、美しい曲線を描いています。
豊臣政権時代に生駒親正が讃岐17万石を与えられ、高松城を本城とし、1597年に亀山に支城を築きました。6年の歳月をかけ、1602年にほぼ現在の城郭が完成しました。頂部の本丸には1660年(万治3年)に建てられた御三階櫓がそびえ、現存天守の中で最も小規模ながら、千鳥破風や唐破風も施されています。この御三階櫓は、高さ15メートルで、瀬戸大橋一帯を見渡すことができます。
城跡の全域は国の史跡に指定され、亀山公園となっています。天守のほかに大手一の門、大手二の門、藩主玄関先御門、番所、御籠部屋、長屋が現存し、そのうち天守、大手一の門、大手二の門は重要文化財に指定されています。大手門と天守が共に現存しているのは丸亀城、弘前城、高知城のみです。
美濃生まれの武将で、織田・豊臣に仕え、賎ヶ岳や小牧山の戦いで軍功を挙げました。近江高島田、伊勢神戸、三田城主、赤穂城主を経て讃岐高松城を築き、城主となりました。
対馬生まれの武将で、江戸幕府の命により西讃岐統治のため丸亀城に移封されました。築城の名手で、三原、松山、大坂城などの修築を手掛けました。
播州竜野から西讃岐に移封され、丸亀藩京極家初代藩主となりました。京極家は近江源氏佐々木信綱の子孫に続いています。
丸亀市街地の南部に位置する亀山を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の周りを内堀で囲む平山城です。石垣は緩やかで荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から成り、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」と呼ばれるデザインです。山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣の高さは60メートルで、総高としては日本一高く、三の丸石垣だけで最も高い部分は22メートルあります。
頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存し、この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ、高さは15メートルで現存天守の中で最も小規模です。
内堀の周囲には侍屋敷が建ち並び、この周囲を外堀が囲んでいました。侍屋敷は明治時代に大半が取り壊され、跡地には善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、裁判所や小・中学校などが建てられました。外堀も明治頃まで存在していましたが、琴平参宮電鉄の路線延長とその後の廃線や旧国道11号(県道33号線)の整備などにより年々減少し、現在は外堀跡に外濠緑道公園が整備されています。
丸亀城築城の際、石垣の工事が難航したため、人柱を立てることになりました。ある雨の降る夕暮れ、工事現場付近を通りかかった豆腐売りが捕えられ、人柱として生き埋めにされてしまいました。その後、石垣の工事は完成しましたが、それ以来雨の降る夜には「とーふー、とーふー」という豆腐売りの声が聞こえるという伝説があります。
丸亀城の石垣は名人羽坂重三郎によるもので、城主に「見事である。この石垣を登れる者はあるまい」と感嘆されました。しかし重三郎は「私ならば尺の鉄棒があれば登れます」と言い、短い鉄の棒を使って石垣を登ってみせました。これを見た城主は重三郎が敵と通じることを恐れ、嘘の井戸の調査を命じ、重三郎を井戸に埋め殺してしまいました。
現在、丸亀城は原則年中無休で公開されています。所在地は香川県丸亀市一番丁4番地乙です。JR四国予讃線の丸亀駅や丸亀コミュニティバスの丸亀城前停留所からアクセス可能です。
丸亀城はまた、丸亀市立資料館や外濠緑道公園などの関連施設も近くにあります。年間行事としては「丸亀城桜まつり」や「丸亀お城まつり」などが開催され、観光客を楽しませています。
9:00~16:30 天守閣
なし
大人 200円
小人(小・中学生)100円
丸亀駅から徒歩で10分