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今治城

(いまばりじょう)

今治城は、愛媛県今治市通町三丁目に位置する日本の城で、伊予国越智郡今治にあった城です。昭和28年(1953年)10月9日に愛媛県の史跡に指定されており、別名を「吹揚城(吹上城)」ともいいます。

今治城の概要

今治城は、藤堂高虎によって築かれた城で、海を最大限に活用した構造が特徴です。江戸時代初期に完成し、日本三大水城の一つに数えられています。天守や櫓、城門などの多くの建造物があり、当時は広大な城郭を誇っていました。

築城の経緯と藤堂高虎

今治城は、慶長7年(1602年)に藤堂高虎によって築城が開始され、慶長9年(1604年)に完成しました。築城の目的は、唐子山にあった国府城に代わり、より能率的な都市経営を行うためでした。普請奉行には渡辺了が任命されていました。

城の構造と特徴

今治城は三重の堀に海水を引き入れる特異な構造を持ち、当時は海から堀に直接船で入ることができました。二之丸には藩主館、中堀には側近の武士の屋敷、外堀の内側には侍屋敷があり、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と、非常に広大な城郭でした。

天守の移築と今治藩の変遷

慶長14年(1609年)、藤堂高虎が伊勢国津城に移封され、天守は丹波国亀山城に移築されたと伝えられています。その後、高虎の養子である高吉が今治領2万石を治め、今治藩はその後も続きました。

城の変遷と現代の姿

明治維新と廃城

明治2年(1869年)、明治維新に伴い今治城は廃城となり、多くの建造物が破壊されました。残された二の丸北隅の武具櫓も、明治4年(1871年)に火薬の引火により爆発炎上し、破壊されました。

現代の復元と保存

昭和55年(1980年)には、5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられました。その後、昭和60年(1985年)には東隅櫓が「御金櫓」として外観復元され、平成2年(1990年)には二の丸西隅に山里櫓が復元されました。これらの復元は、史実に基づいて外観が再現されています。

日本100名城と今治城の評価

平成18年(2006年)4月6日、今治城は日本100名城(79番)に選定されました。翌年の平成19年(2007年)9月には、鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟と共に復元され、二の丸には藤堂高虎の像が建立されました。

今治城の石垣と内堀の改修

今治城の石垣や内堀は、近代以降に改修工事が行われています。特に御金櫓の直下の石垣には、本来存在しなかった反りが加えられています。さらに、鉄御門の復元に伴い、石垣の高さが史実より高くなっている部分も見られます。

内堀についても一部が道路の拡張に伴い埋め立てられ、擬木製の柵が設けられたほか、西側の橋が木製から土橋と石橋に改修されています。

天守の存否について

築城当時の天守の存在

今治城の天守については、築城当時に存在していたか否かが明確ではありません。藤堂家の家譜『宗国史』には「城中に五層の高楼を建て」との記述があるものの、天守台の遺構が確認されていないため、その存在が疑問視されています。

天守の移築説

一説には、今治城の天守は藤堂高虎によって上野城に移築され、その後、慶長15年(1610年)に亀山城(丹波国)へ移されたともいわれています。しかし、この説を裏付ける確固たる証拠はなく、天守が存在したかについては結論に至っていません。

再建された模擬天守

昭和55年(1980年)に再建された天守は、往時の天守の実在についての明確な資料が少ないため、史実に基づかない模擬天守です。再建天守は、亀山城の天守を参考にしたとされていますが、実際には望楼型の構造で、多くの意匠が施されています。

その位置も、推定される本丸の中央付近ではなく、二重櫓(北隅櫓)跡に建てられています。最上階からは、瀬戸内海やしまなみ海道の来島海峡大橋を眺望することができます。

今治城のアクセスと観光情報

今治城へは、JR予讃線の今治駅から瀬戸内バス「今治営業所行き」で約10分、「今治城前」バス停で下車し、徒歩約3分でアクセス可能です。城内には模擬天守や櫓があり、周囲の風景と歴史的な建造物を楽しむことができます。

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今治城
(いまばりじょう)
Imabari Castle
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