銀杏城の愛称で親しまれている熊本城は、加藤清正が慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、7年の歳月をかけて同12年(1607)に完成した城。
城域は東西1.6km、南北1.2km、周囲5.3km、城域約76万平方m。北から西へは坪井川を引いて堀とし、東と南は数層の石垣をめぐらし、その複雑で堅固な構造は、清正の実戦体験から生み出されたものといわれている。
熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市中央区に位置する、日本の城です。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」としても知られています。この城は、加藤清正が関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)に建設を開始し、7年の歳月をかけて慶長12年(1607)に完成しました。熊本城の城域は東西1.6km、南北1.2km、周囲5.3km、城域約76万平方メートルに及び、その堅固な構造は清正の実戦体験に基づいています。
熊本城は、熊本市の中心部、北区植木町から南に伸びる京町台地の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城です。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町にあたります。城の建設は中世の千葉城、隈本城を取り込み、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて行われました。加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城となり、明治時代には西南戦争の舞台となりました。
西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失しましたが、宇土櫓をはじめとする13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が現存し、国の重要文化財に指定されています。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されています。
明治時代の熊本城は、熊本鎮台の設置後に多くの建物や石垣が撤去され、西南戦争で主要な建物を焼失しましたが、現在も宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残っています。熊本城の天守は1960年に鉄筋コンクリート造で外観が復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」として利用されています。2000年以降には門や櫓、御殿の一部が木造で復元されました。
2016年4月に発生した熊本地震では、多くの石垣が崩落し、文化財建造物や復元建築が被災しました。その後、修復作業が進められており、今後さらに櫓、門、土塀が木造で復元される予定です。
熊本城はサクラの名所としても知られ、日本さくら名所100選に選定されています。また、城の歴史と文化を学べる施設として、観光施設「桜の馬場 城彩苑」があり、多くの観光客が訪れています。
室町時代の文明年間(1469年 - 1487年)に、肥後守護菊池氏の一族である出田秀信が千葉城(現在の千葉城町)を築いたのが始まりです。その後、菊池氏は託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(現在の古城町)を築かせました。寂心は藤崎八旛宮の遷宮を行い、後奈良天皇から綸旨を得るなど、その影響力を広げました。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定により、隈本城の主であった城久基は筑後国に移りました。隈本城はその後、佐々成政が入り、1591年から加藤清正が城郭を築き始めました。1600年には天守が完成し、清正は肥後一国52万石の領主となりました。1607年、「隈本」を「熊本」と改め、現在の熊本城が完成しました。
1632年、加藤家の改易により細川忠利が肥後54万石の領主となり、熊本城に入りました。忠利は城の修繕や拡張を行い、城郭の整備を進めました。細川家の治世下で熊本城は拡張され続け、城内の櫓は62棟に達しました。
幕末の熊本藩では、熊本城の解体が提案されましたが、解体の方針は凍結され、城内は一般に公開されることとなりました。西南戦争では、熊本城は政府軍の重要拠点となり、西郷軍の攻撃を耐え抜きました。西郷軍の総攻撃の前日、原因不明の出火で大小天守などの建物が焼失しましたが、熊本城はその堅固さを証明しました。
1933年、熊本城の現存建築が国の重要文化財に指定され、城跡は国の史跡に指定されました。1945年の熊本大空襲では一部が焼失を免れました。戦後、熊本城は復興が進められ、1960年には天守閣が再建されました。
1993年、旧細川刑部邸が三の丸に移築され、1997年に「熊本城復元整備計画」が策定されました。2006年には日本100名城に選定され、築城400年を記念して多くの建造物が復元されました。2020年の東京オリンピックの聖火リレーでも熊本城がセレブレーション会場として使用されました。
2016年の熊本地震では、石垣の崩落や建物の被災が確認されました。その後、修復作業が進められており、熊本城の完全復元を目指しています。現在も修復作業が続いており、今後も熊本城の歴史と文化が守られていくことが期待されています。
1877年の西南戦争直前、天守と本丸御殿が焼失しました。昭和初期には再建が議論されましたが、実現しませんでした。
1931年、陸軍技師の坂本新八が天守閣の設計図を「建築雑誌」に掲載し、復興の声が高まっていました。しかし、1941年に東京工業大学の藤岡通夫が設計図の多くが推定によるものであると指摘しました。その後、宇土櫓から発見された資料を基に、新たに立面図などを発表しました。
1955年10月24日、旅館の経営者と菓子製造の経営者が商店街で再建運動を始めました。彼らは「熊本城本丸を再建させましょう」と呼びかけ、署名を集めました。
1956年3月の熊本市長選挙で、元衆議院議員の坂口主税が天守再建を公約に掲げて当選しました。熊本市は2億円の予算を計上し、1億5,000万円を国から借入れ、残り5,000万円を募金や寄付で賄う計画を立てました。松崎吉次郎が5,000万円全額を寄付し、話題となりました。
1959年4月1日に起工式が行われ、1960年4月1日に上棟式が行われました。同年5月には鯱瓦が大天守の屋根に据え付けられ、8月31日に鉄骨・鉄筋コンクリート造の天守が竣工しました。総工費は約1億8,000万円で、9月22日に落成式が行われ、10月1日から3日までお城まつりが開催されました。
天守閣の内部は熊本市立熊本博物館の分館として資料が展示され、最上階は展望スペースとなっています。二の丸には水泳競技用の県営プール、三の丸には藤崎台県営野球場が整備されました。
熊本城は梯郭式平山城で、広さは約98ヘクタール、周囲は約5.3kmあります。本丸は丘陵の最も高い部分にあり、石垣が全面に積まれています。二の丸・三の丸は重点箇所に石垣が築かれています。搦手口のある北は弱点とされていますが、断崖と空堀で防備が固められています。
熊本城の郭は大きく4つに分類され、本城、二の丸、三の丸、出丸があります。特に本丸は大小天守と本丸御殿を中心に多くの建造物が建てられ、防備が固められています。
熊本城の石垣は「武者返し」と呼ばれる形状が特徴で、加藤清正が築いた技術が反映されています。2016年の熊本地震で約3割が崩落しましたが、石工が祈念や地鎮のために描いたとみられる「人形」の線刻画が発見されました。
本丸御殿は1610年に加藤清正により建設され、豪華絢爛な装飾が施されていました。総畳数は1570畳に及び、地下には穴蔵のような空間がありました。
天守は連結式望楼型で、大天守と小天守の2つがあります。大天守は3重6階地下1階で「一の天守」とも呼ばれ、小天守は3重4階地下1階で「二の天守」とも呼ばれます。小天守は城主夫人のための「御上(おうえ)」という建物です。
大天守は5重の天守と見られることも多いですが、外観は3重内部6階地下1階の構造です。萩城天守と同じく「張出造(はりだしづくり)」で、張り出し部分には石落しがあります。現在観光用出口となっている付櫓は元は階段櫓で、元は多聞櫓から本丸御殿へと接続していました。
小天守の天守台は大天守に被さるように造られ、急角度の石垣があります。また、大天守との建築時期の相違が各所に確認できます。これは大天守が1601年に竣工し、その後に増築されたためです。
櫓の建物は、漆喰壁に柿渋塗りの黒い外観が特徴です。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく、破風には直線が付けられています。多重櫓はすべて望楼型です。
五階櫓(ごかいやぐら)は、3重5階の三重櫓で、宇土櫓を含む6基がありました。これらは他城の天守の規模に相当します。
宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で高さ約19mの櫓です。現存する唯一の五階櫓で「三の天守」とも呼ばれます。平成元年の修理で、二層二階から三層五階に増築されたことが判明しました。
西竹之丸脇五階櫓(にしたけのまるわきごかいやぐら)は別名「独立櫓」とも呼ばれます。かつては塩櫓・飯田丸三階櫓と繋がっていました。防衛面で重要な拠点でしたが、西南戦争後に陸軍によって破却されました。
飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)は、飯田丸の南西隅にあった櫓で、防衛面で重要な役割を果たしました。平成17年に木造復元されました。
往時には9基の三階櫓がありました。構造は2重3階の二重櫓でした。
小広間西三階櫓(こひろまにしさんがいやぐら)は、本丸南西隅にあった唯一の3重3階の櫓です。明治期まで鎮台司令部が置かれていました。
月見櫓(つきみやぐら)は本丸南東端にあった櫓で、観月に適した造りをしていました。西南戦争で焼失しました。
本丸東三階櫓(ほんまるひがしさんがいやぐら)は本丸東端にありました。三階櫓へ改築された理由や年月は不明です。西南戦争時の火災で焼失しました。
飯田丸三階櫓(いいだまるさんがいやぐら)は南側の重要拠点でしたが、西南戦争後に陸軍によって破却されました。
長櫓上三階櫓(ながやぐらうえさんがいやぐら)は、数寄屋丸の西面にあった櫓で、防衛の重要拠点でしたが、鎮西鎮台によって破却されました。
戌亥櫓(いぬいやぐら)は、西出丸北西隅にありました。構造は未申櫓と同一で、平成15年に木造で復元されました。
未申櫓(ひつじさるやぐら)は、西出丸南西隅にありました。戌亥櫓と共に平成15年に木造で復元されました。
櫨方三階櫓(はぜかたさんがいやぐら)は、西出丸北東隅にあったL字型の櫓です。西南戦争前に破却されました。
森本櫓(もりもとやぐら)は、三の丸北西にありました。名称は加藤清正の重臣、森本一久に由来します。明和7年の火災で焼失し、その後再建されませんでした。
現存する遺構: 宇土櫓、監物櫓(長岡図書預櫓)、平櫓、五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓、長塀(全長約242m)、不開門の13棟は現存し、それぞれ国の重要文化財に指定されています。
飯田丸五階櫓、南大手門、未申櫓、戌亥櫓、西出丸長塀が復元されました。2007年の清正による築城400周年に際し、本丸御殿大広間の復元工事が完了し、2008年4月20日から一般に公開されています。他の多重櫓の復元も長期計画に入っています。
外観復元されていた馬具櫓は木構造部分の老朽化により、木造で再復元されました。
かつて天守内に展示されていた細川家の御座船「波奈之丸」は、熊本地震後に搬出されました。この部分は「細川家舟屋形」として国の重要文化財に指定されています。2016年から2018年にかけて修理が行われ、熊本市立熊本博物館で公開されています。
以下の13棟が国の重要文化財に指定されています。
その他にも監物櫓(監物台樹木園)と長塀(坪井川端)があります。
2016年の熊本地震で、重要文化財建造物13棟のうち北十八間櫓、東十八間櫓の2棟が倒壊。宇土櫓、不開門、長塀の3棟が一部倒壊し、他の8棟にも傾斜や外壁破損の被害がありました。
城下町は西南戦争で焼失し、一般的な市街地が形成されました。しかし、辛島町から熊本駅までの一帯には城下町の町割りのまま道路が敷かれ、かつての職人町の地名が多く残っています。
9:00~17:00
※天守閣の入場は16:30まで
12月29日~12月31日
高校生以上 800円
小・中学生 300円
未就学児 無料
熊本駅から列車で10分