太宰府天満宮は、福岡県太宰府市に位置する神社で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社です。神紋は梅紋で、祭神として菅原道真(菅原道真公、菅公)を祀る天満宮の一つです。
天神様のお膝元として信仰されており、特に初詣の際には、九州をはじめ全国各地から毎年200万人以上、年間では850万人以上の参拝者が訪れ、全国天満宮の総本社とされる京都の北野天満宮とともに、菅公の霊廟として篤く信仰されています。
菅原道真は昌泰4年(901年)、右大臣として朝廷に仕えていましたが、左大臣藤原時平らの陰謀により、筑前国の太宰府に員外帥として左遷されました。道真は延喜3年(903年)に同地で死去し、その後、彼の遺骸を安楽寺に葬る際、牛車が動かなくなる出来事がありました。これは道真の遺志であり、その場所に留まりたいとする願いとされ、延喜5年に味酒安行が廟を建立し、これが安楽寺天満宮の始まりとされています。
道真の死後、都では疫病や異常気象が続き、これを道真の祟りと恐れた朝廷は、彼の霊を鎮めるために神社を造営しました。しかし、その後も「道真の祟り」は収まらず、皇太子や藤原時平らの死を招く事態が続きました。ついには延長8年(930年)に清涼殿に落雷があり、これが清涼殿落雷事件として知られ、道真の霊が強く意識されるようになりました。その後、道真に太政大臣追贈などの措置が行われ、彼に対する御霊信仰が頂点に達し、「天満宮」という社号が用いられるようになりました。
江戸時代初期、黒田氏が国主となってからは、社域の整備や社殿の修復・造営が進み、太宰府天満宮は九州でも多くの観光客を集める神社として隆盛を極めました。また、学問の神としての信仰が強まり、全国から多くの参拝者が訪れるようになりました。
明治時代に入ると、新政府による神仏分離の政策により、天満宮周辺に住む多くの社僧が復飾・還俗を余儀なくされました。また、講堂、仁王門、法華堂などの建物や多くの仏像が破壊され、安楽寺は廃寺となりました。近代社格制度のもとで、明治4年(1871年)に国幣小社に列格され、神社名を太宰府神社に変更しましたが、戦後の昭和22年(1947年)に太宰府天満宮に復しました。
菅原道真は「学問の神様」として広く知られています。彼の学問に対する姿勢と優れた業績が後世に伝わり、学問の神として多くの人々に崇敬されています。同時に「文化の神様」としても信仰され、各時代の人々による和歌・連歌・歌舞伎・書画の奉納を通じて文芸・芸能・芸術と関係が深まりました。
参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地とされ、三条実美たち公卿5人が滞在しました。土佐脱藩の土方久元や中岡慎太郎、薩摩の西郷隆盛、長州の伊藤博文、肥前の江藤新平、坂本龍馬なども来訪しました。
太宰府天満宮、北野天満宮、防府天満宮を合わせて「三天神」と呼びます。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通しますが、あとの一つを大阪天満宮とする説もあります。
太宰府天満宮は「学問の神様」である菅原道真を祀っているだけでなく、「文化の神様」としても信仰されています。歴史的に和歌や連歌、歌舞伎、書画などの奉納が行われ、文芸・芸能・芸術の発展に深く関わってきました。平成の時代においても、女性音楽グループが本殿前に特設の舞台を設けて歌唱奉納を行うなど、現代アートとの関わりも見られます。また、奉納絵馬の数や質も九州で指折りであり、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしています。
太宰府天満宮の本殿は、五間社流造で屋根は檜皮葺(ひわだぶき)となっており、正面には唐破風造の向拝(こうはい)が設けられています。左右側面には各1間の唐破風造の車寄を付けています。廻廊が前方の楼門まで廻らされているのが特徴です。
この本殿は、桃山時代に再建され、明治40年(1907年)に特別保護建造物に指定され、昭和25年(1950年)に重要文化財に指定されました。昭和41年(1966年)6月11日付で棟札9枚と板札2枚が重要文化財の附として指定されています。現在もその姿を保ち、参拝者を迎えています。
2023年5月より124年ぶりに本殿の改修が行われ、約3年間、菅公の御神霊は仮殿に移されます。仮殿の設計は建築家の藤本壮介が手掛け、黒を基調とし、屋根の上に梅などの森が広がる現代的かつ斬新なデザインとなっています。
御本殿の改修期間中、御神霊は仮殿に遷されています。仮殿は、建築家・藤本壮介氏の設計で建てられ、約3年間の限定で御神事や参拝が行われる特別な場所です。仮殿は御本殿の前に建てられ、参拝者はここでお祈りを捧げることができます。
太宰府天満宮では、一年を通じてさまざまな神事や祭礼が行われています。特に初詣や梅花祭、神幸式大祭などは、多くの参拝者を集める大きな行事です。
1月1日に行われる歳旦祭は、太宰府天満宮の新年最初の祭事であり、全国から多くの参拝者が訪れます。
1月7日に行われる鬼すべは、菅原道真にまつわる鬼を追い払う伝統的な神事で、参拝者に強い印象を残します。
2月25日に開催される梅花祭は、菅原道真が愛した梅の花を称える祭りで、境内が美しい梅の花で彩られます。
9月21日から25日にかけて行われる神幸式大祭は、太宰府天満宮で最も重要な祭りの一つであり、多くの参拝者が参加します。
初詣(歳旦祭): 1月1日
鬼すべ: 1月7日
鷽替え: 1月7日
初天神祭: 1月25日
梅花祭: 2月25日
曲水の宴: 3月第1日曜日
斎田御田植祭: 6月中旬
神幸式大祭: 9月21日〜9月25日
例祭: 9月25日
秋思祭: 旧暦9月10日
特別受験合格祈願大祭: 10月18日
太宰府天満宮には、平安時代の書跡である『翰苑巻第卅』が国宝として指定されています。また、本殿や末社志賀社本殿、平安時代や鎌倉時代の工芸品など、多くの重要文化財が保管されています。
平安時代に作られた書跡で、1954年(昭和29年)3月20日に指定されました。
桃山時代に造営された本殿で、1907年(明治40年)5月27日に指定されました。
室町時代中期、長禄2年(1458年)に造営された本殿で、1907年(明治40年)5月27日に指定されました。
平安時代に作られた工芸品で、1923年(大正12年)3月28日に指定されました。
鎌倉時代に作られた太刀で、1912年(大正元年)9月3日に指定されました。
室町時代に作られ、裏面に信元(花押)の蒔絵銘がある文台で、1980年(昭和55年)6月6日に指定されました。
平安時代から江戸時代にかけての文書で、1982年(昭和57年)6月5日に指定されました。
奈良時代に作られ、福岡県筑紫郡太宰府町大字観世音寺で出土したもので、1961年(昭和36年)6月30日に指定されました。
1922年(大正11年)3月8日に指定されました。
1935年(昭和10年)6月7日に指定されました。
太宰府天満宮の名物の一つである飛梅は、菅原道真が都を発つ際に「東風(こち)ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだことに由来しています。この梅の木は、道真が京から太宰府に左遷された後、彼を慕って京から飛んできたと伝えられています。
参道には梅ヶ枝餅と呼ばれる餡入りの焼き餅を販売する店が多く並んでおり、参拝者がその風味を楽しむことができます。また 、太宰府天満宮での御神酒は梅酒であり、これも梅にちなんだ名物です。
表参道から境内の奥まで、いたるところに茶屋があり、その多くは梅ヶ枝餅を用意しています。吉井勇が「お石茶屋」について詠んだ歌も有名で、多くの著名人が訪れています。
太宰府天満宮の梅林とクスノキの森は「かおり風景100選」に選ばれており、四季折々の美しい風景を楽しむことができます。
太宰府天満宮の季節ごとに色が変わるおみくじは、「新日本様式100選」に選ばれており、参拝者に人気のアイテムとなっています。
能楽: 世阿弥の『老松(おいまつ)』が有名です。この能では、筑紫安楽寺(太宰府天満宮)に行くと、老人と若い男が梅の垣を囲っている場面から始まります。飛梅と老松の謂われを語り、神々しい姿で去るという粗筋です。江戸時代には徳川将軍家で「高砂」とともに筆頭祝言曲とされていました。
歌曲: 大和田建樹の『鉄道唱歌』第2集山陽九州篇には、太宰府天満宮に関する部分が多く含まれています。道真の生涯や業績、そして天満宮の情景が歌われています。
小説: 住野よるの『君の膵臓をたべたい』では、主人公と桜良が太宰府天満宮を訪れるシーンが描かれています。2017年の映画化の際には、実際に太宰府天満宮でロケも行われました。
開門時刻
春分の日より秋分の日の前日まで 6時00分
上記以外の日 6時30分
閉門時刻
4月・5月・9月・10月・11月 19時00分
6月・7月・8月 19時30分
12月・1月・2月・3月 18時30分
西鉄太宰府駅から徒歩で5分