浅草寺

(せんそうじ)

東京都内最古の寺院で、境内には下町情緒が感じられる参道の両側に
軒を連ねる仲見世通り、雷門と宝蔵門、本堂や五重塔などがあり、連日多くの人で賑わう日本有数の観光名所にもなっている。

仲見世通り
日本で最も古い商店街のひとつで、雷門から宝蔵門まで長さ約250メートルにわたって、老舗の和菓子屋やお土産店が参道の両側に軒を連ねる。
人形焼、コロッケ、肉まん、メンチカツ、大学芋、たい焼き、あげ饅頭、アイスもなか、ジェラートなど、食べ歩きで伝統の味が楽しめる。

都内最古の寺院
創建は645年、僧の勝海が寺を整備した。本尊の聖観音像は公開されることのない秘仏。
857年には延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して秘仏の代わりに人々が拝むための像の観音像「お前立ち」を造ったといわれる。

1590年、江戸に入府した徳川家康が浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与え、徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。

浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、3代将軍の徳川家光の援助により、1648年に五重塔、1649年に本堂が再建された。

江戸時代から表参道両側に商店ができ、境内は庶民の娯楽の場として賑わい、商業施設として「仲見世」ができていった。
1945年に東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。
本堂は1958年、五重塔は1973年に再建された。

雷門 宝蔵門
雷門
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから名称は風雷神門で、通称の雷門と呼ばれている。

現在の門は1960年に鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進した。門内には大提灯がある。三社祭の時(神輿通過のため)と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。
門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。

宝蔵門
雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。

現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。

2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。門の背面左右には、わら2,500kgを使用した魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。

わらじは10年おきに新品が奉納されているが、稲藁は長い方が加工しやすいものの、近年の稲作では全国的に稲藁の利用の激減や、風雨で倒れにくく収穫しやすいことから、丈の低い品種への品種改良が進んでいる。山形県村山市ではこのために丈の高い古い品種を特別に栽培している。

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン製の瓦を全国で初めて採用した。(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)表面のアルミナブラスト加工をランダムに配置することで、土瓦特有の「まだら感」を再現している。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。これ以降、境内の建物の瓦は順次チタン製に置き換えられている。

本堂 五重塔
本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢簞池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた。

外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)を安置する。下段の間にはこのほか徳川家康、徳川家光、公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている。

宮殿の扉の前には「御戸帳」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられている。宮殿の手前左右には梵天・帝釈天像が立つ。宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には本尊の脇侍として不動明王像と愛染明王像を安置する。

毎年12月12・13日に煤払(すすはらい)と開扉法要が行われる。本尊は絶対秘仏で公開されないが、「お前立」の観音像は12月13日午後2時からの開扉法要の際に一般の信徒も拝観することができる。

2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは1958年(昭和33年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン瓦 (カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を採用。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。

2020年6月13日午前、新調された扁額の奉納法要が行なわれた。「施無畏」と書かれた扁額は1727年に奉納されたが、1945年の東京大空襲で焼失し、写真による複製が飾られていた。新調された扁額は大ケヤキの一枚板で、天台宗僧侶で書家の豊道春海の筆による「施無畏」の文字が、井波彫刻の彫刻師、南部白雲によって彫られた。幅約4メートル、縦約1.3メートル、厚さ約15センチメートル、重さ約700キログラム。文字の掘り込みは5センチメートル以上となっている。1958年の本堂再建時に新調予定だったが、大きな一枚板を調達できず長らく実現できずにいた。

五重塔
天慶5年(942年)平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれ、『江戸図屏風』にも描かれている。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。江戸四塔、江戸六塔の一つに数えられる。

アルミ製の瓦を使用していたが、2017年6月には本堂で使われた3色のチタン瓦 (カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を導入した。

Information

名称
浅草寺
(せんそうじ)
Sensoji Temple
リンク
公式サイト
住所
東京都台東区浅草2丁目3-1
電話番号
03-3842-0181
アクセス

浅草駅から徒歩で5分

エリア
東京都 浅草・スカイツリー 関東 東京都内(23区)
カテゴリ
 神社・仏閣・寺院・教会 歴史・文化・アート

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