清浄光寺は、神奈川県藤沢市に位置する時宗総本山の寺院で、正式には「藤沢山無量光院清浄光寺」と号します。近世以降は「遊行寺(ゆぎょうじ)」の通称で広く知られ、特に明治時代からは、法主である藤沢上人と遊行上人が同一人物であるため、遊行寺としてその名が定着しました。また、藤沢道場とも呼ばれ、時宗の信仰の中心地としての重要な役割を果たしてきました。
清浄光寺の開基は、現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町にかつて存在した俣野氏の一族である俣野五郎景平です。景平の弟である遊行上人第四代呑海(どんかい)は、三代智得の死後、時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山を試みましたが、北条高時の命令により真光が当麻に留まることとなり、呑海は入山できませんでした。そのため、呑海は正中2年(1325年)、俣野領内の藤沢にあった廃寺・極楽寺を再興し、これが清浄光院の始まりとされています。この寺は当時、現在の位置から約400メートル北にあった光徳と呼ばれる場所にあり、以後「藤沢道場」と呼ばれるようになりました。
清浄光寺は、足利尊氏から領地六万貫を寄進されたという伝承もあり、藤沢の地は門前町として発展していきました。また、延文元年(1356年)には八代渡船が梵鐘を鋳造し、その鐘には「清浄光院」と陽刻されていたことから、この時期まで清浄光院と名乗っていたことが分かります。その後、応永年間に2度の焼失を経て、広大な堂宇が再建され、寺は「清浄光寺」と改称されました。
永正10年(1513年)、伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康の戦いにより、清浄光寺は全山焼失しました。これは清浄光寺が三浦道寸と通じていたため、後北条氏と敵対関係にあったことによるものです。その結果、後北条氏の玉縄城主に旧領の返還を求めましたが、復興は許されませんでした。その後、本尊である阿弥陀仏は駿河国府中の長善寺に移され、さらに甲斐国の一蓮寺に移されることとなります。
三十二世遊行上人他阿普光は、天正19年(1591年)に常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場(後の神応寺)を建立し、時宗の本拠としました。普光は甲府一蓮寺の天順を清浄光寺貫首とし、天順は慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興しました。この再興は、後北条氏時代の焼失から94年後のことでした。寛永8年(1631年)には江戸幕府寺社奉行からの命により、清浄光寺が時宗の総本山としての地位を再び認められ、時宗の教勢は再び盛り上がりを見せました。
明治時代に入ると、明治天皇が東京行幸の際に清浄光寺に宿泊しました。しかし、明治維新後、幕府から与えられていた回国の御朱印を失い、遊行上人は地方への出向が求められるようになり、藤沢上人と遊行上人が同一人物として認識されるようになりました。1880年(明治13年)の藤沢の大火事では、清浄光寺の多くの建物が焼失し、1911年(明治44年)には再び火災に見舞われ、『一遍上人絵詞伝』を含む重要な文化財が焼失しました。また、1923年(大正12年)の関東大震災では本堂が全壊するなど、多くの被害を受けましたが、1937年(昭和12年)に本堂が再建されました。
清浄光寺には数多くの貴重な文化財が所在しており、国宝や重要文化財、登録有形文化財などが保存されています。
清浄光寺には、鎌倉時代の絵巻物である「絹本著色一遍上人絵伝」が国宝として指定されています。この絵巻物は全12巻から成り、一遍上人が訪れた各地の風景が詳細に描かれています。これは歴史的にも風俗資料としても極めて貴重なもので、現在は清浄光寺が単独で所有しており、京都国立博物館および奈良国立博物館に寄託されています。
清浄光寺には、以下の重要文化財が所在しています:
また、清浄光寺には以下の登録有形文化財が存在しています:
清浄光寺の境内には、藤沢敵御方供養塔があり、1926年(大正15年)に国の史跡に指定されました。この供養塔は、1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で戦死した人々を供養するため、1418年(応永25年)に遊行14世太空によって建立されたものです。
延享5年(1748年)、清浄光寺にはそれまで無かった時宗の学寮として、藤沢学寮が設けられました。その後、七条道場金光寺の七条学寮や浅草日輪寺の浅草学寮も設置されました。これらは後に清浄光寺に移され、1894年(明治27年)に「東部大学林」と称されました。1903年(明治36年)には西部大学林(七条学寮)も合併され、宗学林と改称されました。
さらに1916年(大正5年)には藤嶺中学校(現在の藤嶺学園藤沢中学校・高等学校)が併設され、学校法人藤嶺学園となりました。また、時宗青年会の前身である養真会も設立され、宗門内外に対する教化活動が積極的に展開されました。