岸和田城の起源と築城の歴史
楠木氏と和田高家による築城
岸和田城の起源は、元弘4年(1334年)に遡ります。楠木正成の一族である和田高家が、現在の城の東側にある野田町に城を築いたのが始まりとされています。しかし、この城はまだ本格的な城郭ではなく、防衛拠点としての役割を果たしていました。
小出秀政による本格的な改築
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の際、秀吉の伯父である小出秀政が岸和田城主となりました。秀政は、それまで簡素な造りであった岸和田城を五層の天守を持つ本格的な城郭へと改築し、現在の岸和田城の基礎を築きました。
岡部氏によるさらなる発展
元和5年(1619年)には松平(松井)康重・康映が城主となり、寛永17年(1640年)からは岡部氏が城主を務めました。岡部宜勝(のぶかつ)は城をさらに改築し、近世城郭としての形を完成させました。岡部氏は明治維新まで13代にわたり岸和田城を治めました。
岸和田城の近代と現在の姿
天守の焼失と模擬天守の建造
文政10年(1827年)、岸和田城の天守閣は落雷によって焼失しました。明治維新の際には、城主自らが櫓や門などの城郭施設を破壊したため、近世以前の建築物は堀と石垣を除いてほとんど残されていません。現在の天守閣は昭和29年(1954年)に建造されたもので、三層三階の模擬天守として復元されています。
史跡としての岸和田城
現在、岸和田城跡は大阪府の史跡に指定されており、本丸庭園は国の名勝となっています。本丸および二の丸一帯の約4.9ヘクタールは「千亀利公園」として岸和田市が管理し、市民の憩いの場となっています。
本丸
天守
現在の天守は3層の連結式望楼型ですが、正保年間に幕府へ提出された「泉州岸和田城図」では、5層の天守が描かれています。かつての天守は落雷により焼失し、再建されることなく幕末を迎えました。
昭和29年に、市民の寄付や旧城主の岡部氏の要望により再建されました。平成4年には大改修工事が行われ、現在の天守の姿となっています。
犬走り
本丸の石垣には「犬走り」と呼ばれる周堤帯があり、これは防御上不利とされながらも造られました。その理由は、脆い泉州砂岩の崩壊を防ぐためではないかと考えられています。
八陣の庭
この庭園は、昭和28年に作庭家・重森三玲によって設計されました。庭のデザインは、三国志で知られる諸葛孔明の「八陣法」に基づいています。平成26年には国の名勝に指定されました。
二の丸
二の丸には、かつて「二の丸御殿」と「伏見櫓」がありました。戦国時代には本丸として機能していたと考えられており、面積は約8000m²でした。
二の曲輪
五風荘
二の曲輪には、かつて多くの施設が存在しました。現在、その跡地には「五風荘」と呼ばれる回遊式日本庭園が残されており、見学が可能です。
三の曲輪
三の曲輪には、かつて「北口門」「坂口門」「御勘定所」などが設けられていましたが、現在はその遺構はほとんど残っていません。
町曲輪・外曲輪
浜の石垣
町曲輪・外曲輪の北西縁には「浜の石垣」が築かれ、当時の海岸線沿いに約800mにわたり整備されました。これは沿岸防衛や防潮堤の役割を果たしていましたが、明治以降に取り壊され、現在はわずかに中町児童公園近くにその一部が残っています。
岸和田城の特徴と見どころ
「千亀利城」という別名の由来
岸和田城は、かつて猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上に築かれました。本丸と二の丸を合わせた形が、機織りの際に縦糸を巻く器具「縢(ちきり)」に似ていることから、「千亀利城」と呼ばれるようになったといわれています。
縁結びのパワースポット「岸城神社」
城内にある「岸城神社(きしきじんじゃ)」は、「千亀利」の名が「契り(ちぎり)」と通じることから、縁結びの神社としても知られています。多くの参拝者が訪れ、良縁を願う場所として親しまれています。
美しい庭園「八陣の庭」
本丸内には「八陣の庭」と呼ばれる美しい庭園があり、四季折々の風景を楽しむことができます。特に春には桜が咲き誇り、花見の名所としても人気を集めています。この庭園は、名将・諸葛孔明が用いた八陣の陣形をモチーフにした独特のデザインが特徴です。
続日本100名城への選定
岸和田城は日本100名城には選ばれませんでしたが、2017年(平成29年)4月6日に「続日本100名城(161番)」に選定されました。このことにより、改めてその歴史的価値が評価されています。
岸和田城は、長い歴史を持つ大阪の名城のひとつであり、戦国時代から近世にかけて数々の城主によって発展を遂げてきました。現在では史跡として保護され、美しい庭園や模擬天守を楽しむことができます。大阪観光の際には、ぜひ訪れてその歴史と魅力を感じてみてはいかがでしょうか。