日本最古の多宝塔
金剛寺の境内にある多宝塔は、平安時代後期に建てられた日本最古の多宝塔であり、同時に大阪府で最も古い木造建築物でもあります。この多宝塔は、歴史的価値が極めて高く、訪れる人々に深い感動を与えています。
女人高野
金剛寺は、高野山が女人禁制であったのに対し、女性も参詣が許されたため、慈尊院、室生寺などと共に「女人高野」(にょにんこうや)と呼ばれて親しまれてきました。この特別な位置づけにより、多くの女性信者が訪れた歴史があります。
女人高野は、「女性とともに今に息づく女人高野 ― 時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地」というスローガンで、文化庁の「日本遺産」に認定されています。
歴史
南北朝時代の拠点として
南北朝時代には、金剛寺は南朝の重要な拠点の一つとして位置づけられていました。延元元年(1336年)には後醍醐天皇によって勅願寺に指定され、正平9年(1354年)には後村上天皇の行宮が置かれるなど、歴史の舞台にたびたび登場しています。さらに、この地では後醍醐・後村上両天皇の側近である文観房弘真が没したことでも知られています。
寺の創建と初期の歴史
金剛寺の寺伝によれば、インドのアショーカ王が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたという伝説があります。奈良時代の天平年間(729年 - 749年)、聖武天皇の勅願により行基が開山したとされています。その後、弘法大師(空海)も修行を行ったと伝えられています。
平安時代の再興
平安時代末期には、高野山の僧・阿観(あかん)がこの寺に住し、後白河上皇とその妹八条院の帰依を受けました。また、治承4年(1180年)には地元の武士源貞弘から土地の寄進を受け、金堂や御影堂が建立されました。この頃から「女人高野」として女性の参詣が許され、多くの信仰を集めました。
南北朝時代の繁栄
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、金剛寺は観心寺と共に南朝方の一大拠点となりました。延元元年/建武3年(1336年)には後醍醐天皇により勅願寺に指定され、正平9年/文和3年(1354年)には後村上天皇の行宮が置かれました。
後醍醐天皇との深い関わり
後醍醐天皇は金剛寺を通じて南朝を支えました。その際、文観房弘真が護持僧として活躍し、学僧禅恵が多くの仏教書を書写するなど、宗教的にも文化的にも重要な役割を果たしました。
戦乱とその影響
正平15年/延文5年(1360年)には北朝の攻撃を受けて多くの塔頭が焼失しました。また、文中2年/応安6年(1373年)には、楠木正儀が金剛寺を占領する事件が発生しました。それでも寺は衰退することなく、その後の再興を遂げます。
室町時代から江戸時代の発展
室町時代以降、金剛寺は戦火を逃れ、銘酒「天野酒」を販売して収入を得るなどして寺勢を保ちました。豊臣秀頼の手による伽藍整備や、江戸幕府の将軍徳川綱吉による修復が行われ、主要な伽藍が整備されました。
廃仏毀釈の影響と現在
明治時代に入ると廃仏毀釈により塔頭が減少しましたが、主要な伽藍は戦火を逃れ、多くの文化財が残されました。現在でも摩尼院、観蔵院、吉祥院の3つの塔頭が残り、金剛寺の歴史と文化を伝えています。
金剛寺の特色
多彩な伽藍と文化財
寺院内には、金堂、多宝塔、食堂、楼門など、多彩な伽藍が残されています。これらの伽藍は、豊臣秀頼や江戸時代の徳川綱吉によって修理・再建が行われ、現在でもその美しい姿を保っています。また、廃仏毀釈の影響を受けながらも、摩尼院、観蔵院、吉祥院などの塔頭が現存し、多くの貴重な文化財が残されています。
金堂(重要文化財)
金堂は、元応2年(1320年)に再建され、豊臣秀頼による大修理を経て現在に至ります。堂内には以下の国宝が安置されています:
- 本尊 金剛界大日如来坐像
- 不動明王坐像
- 降三世明王坐像
これらの仏像は密教の曼荼羅を立体化したものであり、他に例を見ない芸術性を持っています。
多宝塔(重要文化財)
平安時代後期に建立された多宝塔は、日本最古の現存する多宝塔であり、大阪府内で最古の木造建築物でもあります。内部には極彩色の仏の世界が描かれており、下層には大日如来が安置されています。慶長11年(1606年)には豊臣秀頼による大改修が行われました。
楼門(重要文化財)
鎌倉時代後期に再建された楼門には、増長天と持国天の二天が安置され、寺の入口を守っています。この門は金剛寺の象徴的な存在で、多くの参拝者がこの門を通じて境内に足を踏み入れます。
食堂(重要文化財)
南北朝時代には後村上天皇が約5年間政務を執った場所として知られています。この食堂は、金剛寺が政治と密接な関わりを持っていたことを示す重要な建物です。
御影堂(重要文化財)
御影堂には弘法大師の御影が安置されています。この建物は慶長11年(1606年)に再建され、観月亭が付設されています。南北朝時代の歴史を今に伝える建造物です。
薬師堂(重要文化財)
薬師堂には府指定文化財である薬師如来を中心に、両脇侍の日光菩薩と月光菩薩、さらに十二神将が祀られています。慶長年間に豊臣秀頼により再建されました。
五仏堂(重要文化財)
五仏堂には五智如来(大日如来、阿閦如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来)が祀られています。この堂も豊臣秀頼による再建で、新西国三十三箇所第7番札所として多くの参拝者を迎えています。
奥殿(国登録有形文化財)
南北朝時代、北朝の三上皇(光厳・崇光・光明)が約3年間幽閉された場所として知られています。この歴史的背景から、奥殿は特別な価値を持つ建物となっています。
摩尼院(重要文化財)
摩尼院は、南北朝時代に後村上天皇が約5年間御座所として使用した場所で、かつては90近くあった子院の中でも有力な子院でした。
天野山八十八ヶ所霊場
四国八十八ヶ所霊場の砂を勧請し、誰でも簡単に巡拝できる霊場が設けられています。これにより、四国まで行かずとも八十八ヶ所巡りの功徳を得ることができます。
天野街道
天野街道は、西高野街道から分岐し金剛寺に至る道です。この街道沿いには中世の風景が残り、歴史の趣を感じさせます。
その他の見どころ
- 庭園: 蜂須賀家政が作庭したとされる美しい庭園
- 鎮守橋(国登録有形文化財): 天野川に架かる歴史的な橋
- 宝物館: 貴重な文化財を展示
「天野酒」との関係
室町時代には「天野酒」という銘酒を販売することで収入を得るなど、独自の経済活動も展開していました。この酒は、地域における寺院の影響力を物語る一例と言えるでしょう。
文化財
国宝
金剛寺は数多くの国宝を有しており、その中でも特に重要なのが以下の品々です。
- 木造大日如来坐像、木造不動・降三世明王坐像 3躯(附 木造天蓋) - 2017年度に国宝に指定されました。
- 剣 無銘 附:黒漆宝剣拵
- 紙本著色日月四季山水図(六曲屏風一双) - 2018年度に国宝指定された中世やまと絵屏風の代表作で、その独特な表現方法は日本画家たちにも影響を与えています。
重要文化財
金剛寺の重要文化財には、多くの建造物や彫刻、絵画、工芸品などが含まれています。その一部をご紹介します。
建造物
- 楼門(附:棟札)
- 金堂(附:棟札)
- 御影堂(観月亭を含む)
- 多宝塔
- 食堂(天野殿)
- 鐘楼
これらの建造物群は、金剛寺の長い歴史を象徴するものであり、日本の伝統建築を学ぶ上でも非常に価値があります。
彫刻
- 木造大日如来坐像(多宝塔安置)
- 木造二天王立像 2躯 - 弘安2年(1279年)法橋正快等の作
- 木造五智如来坐像(五仏堂安置)5躯
これらの彫刻は、仏教美術の粋を極めた作品として高い評価を受けています。
絵画
- 絹本著色五秘密曼荼羅図
- 絹本著色弘法大師像
- 絹本著色尊勝曼荼羅図
工芸品
- 金銅柄香炉(附:金銅牡丹文透蓋)
- 蓮花蒔絵経筥(東京国立博物館寄託)
- 白銅鏡(花鳥文様)
史跡と登録文化財
国指定史跡
金剛寺の境内は、国の史跡として指定されており、その歴史的な価値が広く認められています。
国の登録有形文化財
2017年に、以下の12件の建造物が国の登録有形文化財に指定されました。
- 本坊持仏堂
- 本坊客殿
- 本坊大玄関
- 本坊茶室
- 大講堂
- 鎮守橋
地域指定の文化財
金剛寺には大阪府や河内長野市によって指定された有形文化財や天然記念物も多数存在します。
- 大阪府指定有形文化財 - 木造薬師如来立像、銅製銭弘俶塔など
- 大阪府指定天然記念物 - 金剛寺のスギ
- 河内長野市指定有形文化財 - 木造千手観音菩薩立像、板絵著色三十六歌仙図など
交通アクセス
金剛寺へのアクセスは便利で、南海バス天野山線の「天野山」バス停を降りてすぐの場所にあります。このため、多くの観光客が訪れることができる立地となっています。
巡礼地としての金剛寺
金剛寺は、新西国三十三箇所や河泉二十四地蔵霊場など、多くの巡礼地としても知られています。そのため、参詣者や巡礼者が絶えず訪れる場所として、現在でもその重要性を保っています。
訪問の魅力
金剛寺は、その文化財や建造物だけでなく、四季折々の自然美も楽しめる場所です。春には桜、秋には紅葉が美しく、写真愛好家や観光客に人気です。また、寺院周辺には散策に適した道があり、ゆったりとした時間を過ごせます。
長い歴史と多様な文化財を有し、訪れる人々に日本の宗教文化や建築の魅力を伝えています。また、「女人高野」としての特色や、地域との関わりを深く刻んだ歴史が、多くの人々を惹きつけています。ぜひ一度、金剛寺を訪れ、その魅力を直接感じてみてはいかがでしょうか。