映画と天龍寺
武家屋敷のようなたたずまいや、近くに渡月橋や峡谷もあり、明治の時代から京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。
境内
境内東端に勅使門(伏見城の門を1641年に移築)があり、西へ伸びている参道の両側に塔頭(山内寺院)が並び、正面に法堂(はっとう)、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、多宝殿などがある。
庫裏:天龍寺景観の象徴ともなっている1899年に再建の三角形の切妻造の屋根、白壁を梁で縦横に区切った建物。
大方丈:天龍寺最大の建物で、1899年に再建。正面と背面に幅広い広縁があり、庭園を眺めることができる。
内部は六間取りの方丈形式で、中央の48畳敷き、左右に24畳敷きの部屋があり3室を通して使うこともでき、東西を仕切る襖には雲龍の絵が描かれている。
禅庭・枯山水の傑作
曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式庭園は、禅僧であり、作庭家である夢窓疎石(むそう そせき)による作庭。
桂川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山(小倉山)を取り込んだ借景式庭園(庭園の背後ある美しい山を背景として庭園に溶け込ませる技法)。
自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現している。
夢窓疎石は世界史上最高の作庭家の一人であり、その禅庭は、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。
夢窓疎石を足利尊氏は師と仰いでいて、後醍醐天皇からも「夢窓国師」の国師号(高僧に対して朝廷から贈られるの尊称)を授けられている。
天皇の別荘地
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇が離宮「亀山殿」を営んでいた。
「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることからこの名がある。
天龍寺は正式名称は霊亀山天龍資聖禅寺で、山号「霊亀山」もちなんでいる。
菩提寺の創建
足利尊氏と後醍醐天皇は対立関係にあり、1336年の建武の乱で足利尊氏が勝利して室町幕府が成立した。
足利尊氏は1338年に征夷大将軍となり、翌年に後醍醐天皇は亡くなる。
武家からも尊崇を受けていた禅僧であり作庭家の夢窓疎石が足利尊氏に強く勧めたことで、足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、離宮であった亀山殿を寺に改め、天龍寺を建立した。
天の龍の名
寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定でだったが、
足利尊氏の弟・足利直義が寺の南の桂川に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と寺号をつけた。
資金調達の貿易船
戦いに勝利してできた成立間もない室町幕府は天龍寺の造営のための資金は不足していたため
夢窓疎石と足利直義は建設資金調達のため中国を征服したモンゴル帝国「元」に天龍寺船という貿易船が仕立てられた。
日元間の通航は途絶していたが、上陸を果たし、交易に成功する。
天龍寺船は莫大な利益を上げて帰国。このときの利益を元に天龍寺の建設が進められた。
足利将軍家と天皇ゆかりの地
1394年に後亀山天皇が天龍寺にて初めて室町幕府 第3代 征夷大将軍の足利義満と面会し不登極帝(即位しなかった天皇)として太上天皇の尊号が贈られた。
広大な寺領
天龍寺は京都五山の第一位として栄え、寺域は約950万平方メートルの広大なもので、子院150か寺を数えたという。
1585年には豊臣秀吉により寺領1,720石が寄進され、1604年には徳川家康により寺領7,020石が承認されている。
幾度もの火災や戦乱に巻き込まれ、創建当時の建物はことごとく失われ、現存する建物の大部分は明治時代後半以降のものである。
夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。
雲龍図
法堂の天井画には1899年に雲龍図が、和紙に描いてから天井に貼付する方法で鈴木松年によって製作された。
損傷が激しかったため、1997年に加山又造により八方睨みの龍の雲龍図(どこから見ても、鑑賞者のほうを睨んでいるよう見える。八方とは、四方と四隅のこと)が製作された。
鈴木松年による雲龍図の一部は大方丈に保存されている。
精進料理
曹源池の南側に位置する龍門亭を再現した建物では精進料理店「篩月」(しげつ)として新鮮な四季折々の野菜・山菜で作る精進料理が味わえる。
嵯峨野の名所
天龍寺の南には渡月橋と嵐山、北門を抜けると竹林の道、大河内山荘や常寂光寺、落柿舎などへ通じる。