859年に創建された、日本三大八幡宮の一社であり、
皇室から伊勢神宮とともに二所宗廟の1つとして崇敬された。
また京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として
鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。
京都盆地南西の男山(標高143メートル)山上に鎮座しており、
「やわたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている。
現社殿は1634年に江戸幕府の第3代征夷大将軍の徳川家光により再建された。
本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。
859年に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国、八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)にて神託を受けた。
「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」
翌年に清和天皇が霊泉「石清水」湧き出る石清水寺(現・摂社石清水社)の境内に社殿を造営したのが創建とされる。
境内の石清水寺は名称を護国寺と改めて、神仏習合の護国寺と一体となる宮寺形式をとった。
939年には皇室・朝廷からは遠国の宇佐神宮に代わり
伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得て、
伊勢神宮と並んで「二所宗廟」と称されるようになる。
京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として崇敬された。
中世以降、武家からは武神・弓矢の神・必勝の神として信仰された。
1045年に源義家が社前で元服して八幡太郎と名乗ったことから源氏の信仰厚く、その分社は全国に及ぶ。
織田信長が奉納した社殿を囲む土塀が現存していて「信長塀」と呼ばれている。
本殿の内殿と外殿の双方の軒が接する所には信長の寄進による「黄金の樋」がかかっている。
社殿、舞殿、東門、西門、廻廊、楼門は徳川家光によって再建されていて、これらはすべて国宝に指定されている。
江戸時代まで護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山四十八坊」と呼ばれる塔頭・宿坊が参道に軒を連ねた。
明治政府の神仏分離令により、「男山八幡宮」に改称。護国寺は廃寺とされ、仏教の建物は解体された。1918年、社名を「石清水八幡宮」へ復し、現在に至る。
大きく分けて本宮のある男山の山上の上院と、頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。
上院にある社殿は「八幡造」と呼ばれる独特の構造で、楼門から奥へと舞殿・幣殿・本殿が続く。
859年に建立されて以来幾度も焼失し、造営14度・修理17度を経て、現存するのは1634年に徳川家光によって再建された。
本殿は内殿と外殿に分かれていて、これは神が昼は外殿に、夜は内殿に遷られるとされることによる。
古代に成立した荘厳な社殿形式を保持しつつ、近世的な装飾を兼備した神社建築として国宝に指定。
上院への参拝は麓から山上までケーブルカーに乗るか、参道を徒歩で登る必要がある。
山麓には主要社殿として頓宮が鎮座する。この頓宮は祭事における神輿の待機所で、他の神社での御旅所に相当。
高さ6メートルにもなる日本最大級の巨大な五輪塔があり、宋と貿易をしていた尼崎の商人が当社に祈ったところ海難を逃れ、その御礼と感謝のために建立したとされる。
日本三大随筆の一つ、1330年頃にまとめられたとされる『徒然草』に書かれた、山麓の社殿である高良神社を八幡宮と勘違いしたという話で有名。
『徒然草』 第52段「仁和寺にある法師」
仁和寺の老僧は「一生に一度は石清水八幡宮をお参りしたい」と思っていた。
ある時思い立ち、一人、徒歩でお参りにいった。
麓の高良社や極楽寺を石清水だと思い込んで、
そこのみ参拝し、他の人が山を登っていたのに、帰路の途についた。
帰った後、傍輩に向って、
「ずっと思っていたことを果たせた。
聞いていた以上に尊さを感じた。
他の参詣者が皆、山へ登っていったが、
お参りすることが本義であるからと思い、山上までは見に行かなかった」
と話し、
「すこしのことにも先達はあらまほしきことなり」
(小さなことにも案内人が必要)と結ばれている。
白熱電球の実用化に向けて世界中の竹を集めて実験したところ、当社境内の竹を使って1000時間点灯に成功し実用化に至った。
境内にはエジソンの偉業を称えた記念碑がある。
南総門開閉門時間
6時~18時(1月20日~12月31日)
※年末年始は変動
下院まで
最寄駅:京阪電鉄京阪本線『石清水八幡宮駅』(徒歩約5分)
山上(上院)まで
境内は男山の上にあるため、麓からの参拝にはケーブルカーまたは徒歩で登る必要がある
石清水八幡宮駅から
ケーブルカー:石清水八幡宮参道ケーブル『ケーブル八幡宮山上駅』下車 (徒歩約5分)
徒歩:表参道(約20分)または裏参道(約15分)ほか
男山山上に至るルートはこの他にも複数あり