姫路城の概要
姫路城は兵庫県姫路市に位置し、江戸時代初期に建設された天守や櫓(やぐら)などの主要な建築物が現存しています。これらの建物は国宝・重要文化財に指定されており、城郭全体のうち「姫路城跡」として指定された区域は国の特別史跡となっています。さらに、日本100名城にも選ばれ、その美しい白漆喰の外壁から「白鷺城(しらさぎじょう)」とも呼ばれています。
特徴と建築美
姫路城は、姫山と鷺山を中心に築かれた平山城で、近世城郭の代表的な遺構です。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、大天守・小天守・渡櫓(わたりやぐら)などが国宝に指定されています。
姫路城の文化財指定
- 国宝: 大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・4棟の渡櫓
- 重要文化財: 27棟の櫓・15棟の門・32棟の塀を含む合計74棟
- 特別史跡: 中堀の内側を含む主郭部
姫路城は「国宝五城」「日本三名城」「日本三大平山城」「日本三大連立式平山城」にも数えられ、歴史的・文化的価値の高い城郭として広く知られています。
現在の姫路城
姫路公園と観光
現在、姫路城を中心とした「姫路公園」として整備され、観光客に開放されています。年間を通じてさまざまな祭りやイベントが開催され、多くの人々が訪れます。また、映画やドラマのロケ地としても利用され、日本文化の象徴的な存在となっています。
姫路城の見どころ
- 大天守: 姫路城のシンボルであり、最上階からの眺望が素晴らしい
- 西の丸: 本多忠政の娘・千姫ゆかりの場所
- 菱の門: 姫路城の正門で、壮麗な造りが特徴
- 長壁神社: 城内にある歴史ある神社
名称の由来と「白鷺城」の別名
「姫路」の地名の由来
姫路城の天守が建つ「姫山」は、古くは「日女路の丘(ひめじのおか)」と呼ばれていました。古文書には「日女道丘(ひめじのおか)」と記されることもあります。また、この地には桜が多く生えていたことから「桜木山」とも呼ばれ、さらには「鷺山」とも称されるようになりました。
「白鷺城」と呼ばれる理由
姫路城は「白鷺城(しらさぎじょう)」とも呼ばれ、その由来には諸説あります。橋本政次氏の『姫路城の話』によると、以下のような理由が挙げられています。
- 姫路城が「鷺山」に築かれているため。
- 白漆喰(しろしっくい)で塗られた城壁が白鷺のように美しいため。
- この地域に白鷺(しらさぎ)と呼ばれる鳥が多く生息していたため。
- 黒い城壁を持つ岡山城(烏城・金烏城)との対比から。
「白鷺城」は「はくろじょう」とも「しらさぎじょう」とも読まれますが、一般的には「しらさぎじょう」として親しまれています。
姫路城の歴史
南北朝時代・戦国時代の姫路城
赤松則村による築城
姫路城の起源は、1333年(元弘3年)にさかのぼります。元弘の乱の際、播磨国の守護であった赤松則村が、姫山にあった称名寺を拠点に縄張りを築いたことが始まりとされています。則村は上洛の途上であり、城の守備を家臣の小寺頼季に任せました。
赤松貞範による城郭の形成
1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、赤松則村の次男である赤松貞範が称名寺を麓に移し、姫山に「姫山城」を築きました。この頃の姫路城は小規模な砦(とりで)でした。その後、1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に貞範は庄山城を新たに築いて本拠を移し、以降は小寺氏が姫山城の城代を務めるようになりました。
戦国時代の姫路城
戦国時代に入ると、姫路城は小寺氏の家臣である黒田重隆、そしてその子・職隆によって本格的な城郭に拡張されました。1567年(永禄10年)、職隆の子・黒田孝高(後の黒田官兵衛)が城代となり、城の防備を強化しました。
織田信長の時代と羽柴秀吉の入城
1576年(天正4年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が播磨国に進軍し、姫路城を拠点として改修を行いました。秀吉は城郭を拡張し、現在の近世城郭の基礎を築いたとされています。
江戸時代の姫路城
江戸時代には姫路藩の藩庁が置かれ、西国探題(さいごくたんだい)が設置されるなど、重要な役割を担いました。城主は頻繁に交代し、池田氏の後には本多氏・榊原氏・酒井氏などが治めました。約270年間にわたり、合計31人の城主が姫路城を守りました。
池田輝政による大改修
関ヶ原の戦い(1600年)後、徳川家康の重臣であった池田輝政が姫路城の城主となり、大規模な改修を行いました。この改修により、現在の壮麗な天守閣が完成し、姫路城は日本屈指の名城としての地位を確立しました。
本多忠政と西の丸の整備
1617年(元和3年)、池田氏に代わって本多忠政が姫路城主となり、さらなる城下町の整備を行いました。翌年には、徳川秀忠の娘・千姫が本多忠刻に嫁ぎ、それを機に「西の丸」が整備されました。
幕末の姫路城
幕末期には、姫路城は幕府側の拠点として重要視されました。姫路藩主・酒井忠惇は幕府の老中として活躍しましたが、戊辰戦争では新政府軍の攻撃対象となり、姫路城は包囲されました。
この時、岡山藩などの新政府軍が姫路城を砲撃しましたが、北風荘右衛門貞忠の仲介によって全面戦闘は回避され、城は新政府に明け渡されました。こうして、姫路城は破壊を免れ、今日までその姿を保つことができたのです。
明治以降の姫路城
明治時代初期、姫路城は陸軍省の管理下に入りましたが、その後民間に払い下げられ、一時は競売にかけられることもありました。しかし、最終的に国有地として保存されることとなりました。
大正時代には姫路市へ無償譲渡され、1927年には史跡に指定され、1931年には天守閣が国宝に指定されました。太平洋戦争中には姫路市が空襲を受けましたが、奇跡的に大天守は焼失を免れ、現在もその姿を残しています。
姫路城の構造と特徴
姫路城の立地
姫路城は、播磨平野の西部に位置し、夢前川と市川に挟まれた地に築かれています。城の中心部は姫山(ひめやま)と鷺山(さぎやま)の地形を巧みに利用しており、 東西には西国街道、南北には飾磨街道・野里街道が通り、南側には飾磨津(現在の姫路港)があるため、交通や物流の拠点としても発展してきました。
縄張と城郭の構造
総構えの特徴
姫路城は「平山城」として分類され、天守のある姫山と西の丸のある鷺山を中心に広がっています。城下町を取り囲む総構え(そうがまえ)を形成し、 内曲輪(うちくるわ)、中曲輪(なかくるわ)、外曲輪(そとくるわ)と三重の螺旋状の防御線を持つ「渦郭式縄張(かくかくしき なわばり)」が採用されています。
堀の構造
姫路城の堀は、北東の麓を起点とし、左回りに城の東部を囲む形で設計されています。総延長は約12.5kmに及び、以下のように3重に配置されています。
- 内堀 - 長さ約3km、堀幅12m〜34m、城の最も内側を囲む。
- 中堀 - 長さ約4.3km、堀幅約20m、城の中心部と外部を区切る。
- 外堀 - 長さ約5.2km、堀幅約14m、城郭の最外部を守る。
現代では、堀の水は船場川から取水され、ポンプによって約5日間で循環するシステムが採用されています。これは、歴史的景観の保全と防火対策の一環として重要な役割を果たしています。
門の配置
姫路城には、各曲輪を区切るための門が多数設置されており、代表的なものとして以下が挙げられます。
- 内曲輪 - 八頭門、桜門、絵図門、喜斎門、北勢隠門、南勢隠門
- 中曲輪 - 市ノ橋門、車門、埋門、鵰門(くまたかもん)、中ノ門、総社門
- 外曲輪 - 備前門、飾磨津門、北条門、外京口門、竹ノ門
石垣の特徴
姫路城の石垣は、築城の時代ごとに異なる技術が用いられています。
石垣の時期区分
- 第1期(羽柴氏時代) - 1580〜1582年。二の丸に多く残る。野面積み。
- 第2期(池田氏時代) - 1601〜1609年。本丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み。
- 第3期(本多氏時代) - 1618年頃。西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ。
- 第4期(江戸時代) - 1867年までの補修。切り込み接ぎ。
- 第5期(明治時代) - 1878年以降の補修工事。
石材には、広峰山・増位山・景福寺山などの近隣の山から採取された凝灰岩、花崗岩、砂岩が用いられています。 また、古墳の石棺、墓石、五輪塔などを転用した石も多数確認されています。
屋根瓦と鯱(しゃちほこ)
姫路城の屋根には、歴代の城主の家紋が意匠として施された鬼瓦や軒丸瓦が使用されています。 代表的な紋様には以下のようなものがあります。
- 池田氏の「揚羽蝶紋」
- 羽柴(豊臣)氏の「桐紋」
- 本多氏の「立ち葵紋」
さらに、姫路城の天守には、昭和・平成の大修理を経て復元された鯱が設置されています。
防御設備
姫路城は、その防御力の高さも特筆すべき点です。城壁には「狭間(さま)」と呼ばれる射撃用の窓が総数997個も残されており、 外側と内側の角度を工夫することで敵の侵入を防ぐ設計になっています。
また、「石落とし」や「武者隠し」といった防御設備も随所に配置され、攻城戦に備えた構造が採用されています。
本丸
姫路城の中心部である本丸には、大天守を含む天守群がそびえ立っています。天守群は「連立式天守」と呼ばれる構造を採用しており、姫山の地形を活かした巧みな築城技術が光ります。
天守
姫路城の天守は、天守丸と備前丸から構成されています。備前丸は天守の南側に位置し、かつては御殿や対面所として使用されていましたが、明治時代に焼失しました。
現在の天守は、江戸時代初期に池田輝政によって建てられたもので、5重6階(計7階)の大天守と3つの小天守(東小天守・西小天守・乾小天守)から成り立っています。白漆喰で塗られた壁は、防火・耐火性を高めるだけでなく、城全体に優美な印象を与えています。
天守の構造
天守の高さは、石垣部分が約14.85m、建物部分が約31.5mで、合計すると海抜92mに達します。総重量は現在約5,700tですが、かつては6,200tほどあったとされています。しかし、昭和の大修理の際に、補修材の撤去や軽量化が行われたため、現在の重量に落ち着きました。
天守の内部には、かつて姫路城に関する展示物が置かれていましたが、平成の大修理後、それらは西の丸に移され、現在の天守内はほぼ空の状態になっています。
天守の歴史
姫路城の最初の天守は、1580年(天正8年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって築かれました。しかし、その後、池田輝政の手により解体され、用材は乾小天守に再利用されました。
1601年から1609年にかけて、池田輝政は姫路城の大規模な改修を行い、現在の天守群を完成させました。この天守は、日本の城郭建築の最高傑作とも言われています。
大天守
外観
大天守の外観は、白漆喰で塗られた壁が特徴で、上品で壮麗な印象を与えます。屋根のデザインは多様で、入母屋破風(いりもやはふ)、唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)などの意匠が取り入れられています。
内部構造
大天守の内部は、各階の床面積が少しずつ減少し、建物全体の荷重を分散させる構造になっています。天守の中心には、直径95cm、高さ24.6mの巨大な柱が立ち、地下から6階まで貫通しています。
各階には、武者走り(むしゃばしり)と呼ばれる通路や、武具掛けが設置されており、戦時に備えた実戦的な設計になっています。また、地下には穴蔵(あなぐら)と呼ばれる空間があり、台所や厠(かわや:トイレ)などが備えられていました。
最上階
大天守の最上階(6階)には、長壁神社(ながかべじんじゃ)の分祀が祀られています。この空間は、書院造(しょいんづくり)の要素を取り入れた設計がなされており、他の階とは異なる趣を持っています。
また、頼山陽(らいさんよう)が詠んだ漢詩が展示されており、歴史と文化を感じられる空間となっています。
小天守と渡櫓
姫路城には、大天守のほかに、東小天守・西小天守・乾小天守の3つの小天守が存在します。これらの天守は、渡櫓(わたりやぐら)によって大天守とつながっており、敵の侵入を防ぐための防御機能も兼ね備えています。
東小天守の1階内部
東小天守の1階部分は、ニの渡櫓と水の五門を備えた構造になっています。堅牢な造りでありながら、美しい意匠が施されており、姫路城の建築技術の高さを実感できます。
西小天守と乾小天守の特徴
小天守の最上階には、「蟻壁長押(ありかべなげし)」や「竿縁猿頬天井(さおぶちえんこうてんじょう)」といった書院風の意匠が取り入れられています。また、西小天守と乾小天守の最上階には、火灯窓(かとうまど)と呼ばれる特徴的な窓が多用されています。
乾小天守の火灯窓には、「物事は満ちると後は欠けていく」という思想に基づき、格子をあえて入れずに未完成状態を保っています。これは、「城の完成=滅びの始まり」という考え方を反映したものです。
火灯窓の歴史
火灯窓は、後期望楼型(こうきぼうろうがた)天守の特徴であり、姫路城以外にも彦根城や松江城などで見ることができます。なお、姫路城の火灯窓は昭和の修理が終わるまで漆喰で塗り込められていたため、かつては外から見えませんでした。
まとめ
姫路城は、日本の城郭建築の最高傑作の一つとされ、その構造や防御設備、景観の美しさが高く評価されています。 そのため、1993年にはユネスコの世界文化遺産に登録され、多くの観光客が訪れる名所となっています。
天守閣の白漆喰の輝きと、精巧な石垣、巧妙な防御設備の数々は、歴史的な価値だけでなく、建築美としても圧巻の存在です。 姫路を訪れる際には、ぜひこの壮大な城の魅力を堪能してみてください。