髙顯寺は、岡山県備前市吉永町八塔寺ふるさと村に位置する高野山真言宗の仏教寺院です。この寺院の山号は「恵日山(えにちさん)」で、本尊として不動明王像と毘沙門天像が祀られています。これらの像は定朝作と伝えられ、秘仏として特別な地位を持っています。
JR山陽本線の吉永駅から八塔寺川に沿って上がると、備前、播磨、美作の三ヶ国にまたがる海抜539メートルの八塔寺に髙顯寺が見えてきます。この地は、元来、聖武天皇の時代に僧道鏡によって開基されたと伝えられる古刹です。かつてこの地域は、山岳仏教の中心地として広く知られ、数多くの僧侶が集う場所として栄えました。
その最盛期には、八院六四僧坊や十三重塔などの仏塔が建てられ、信仰の聖地として多くの人々に尊ばれていました。
1974年には、岡山県下で初めて、八塔寺山全体が「八塔寺ふるさと村」として登録され、保存・整備が進められています。
古代より、八塔寺山は山岳宗教の聖地として崇められてきました。この地は、古代の製鉄技術者たちが活動していた場所でもあり、当初は「八頭霊(はっとうち)」と呼ばれていましたが、次第に「八塔寺(はっとうじ)」と呼ばれるようになり、最終的には「八塔寺山」や「八塔寺村」として知られるようになりました。
寺伝によれば、奈良時代の神亀5年(728年)、聖武天皇の勅願により、鑑真または和気清麻呂、そして道鏡によってこの寺が開基されたとされています。また、本尊として行基菩薩が作ったとされる十一面観世音菩薩の霊像が祀られていました。この時代には、和気氏がこの寺を庇護し、多くの高野聖が集まる場所となり、「西の高野山」として名を馳せました。
その後、幾多の変遷を経て、元暦元年(1184年)に源頼朝によって鎌倉幕府の祈祷所として塔堂や僧舎が再建されました。この時期には十三重の塔や七十二の寺院が建ち並び、寺はその盛隆を極めました。
しかし、南北朝時代に戦乱の影響で本堂や伽藍などが焼失してしまいました。それにもかかわらず、江戸時代に入ると、岡山藩の手によって再興されました。
再興された髙顯寺も、寛政年間には再び焼失してしまいましたが、文化13年(1816年)、当山中興の祖である妙道によって再建が行われました。そして、天保3年(1832年)には「真言宗恵日山高顯寺」と寺号を改め、不動明王、愛染明王、毘沙門天、弘法大師の霊像が祀られています。